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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      憲政会福井県支部の成立
 県下の非政友勢力は憲政会の創立をうけてようやく統一の機を得、大正五年(一九一六)十一月二十日、憲政会県支部の発会式を挙行した。「立憲政治の本義に鑑み政党を基礎とせざる超然内閣に反対」の立場を鮮明に打ち出し、さらに、一、小学校教員の給料の漸次国庫支弁への移行、一、治水および交通政策の一段の努力改善、一、内地産米の価格を維持するための「鮮米移入税」の復活を決議した(『大阪朝日新聞』大5・11・20)。公友会一一人、県政革新会一八人の二派(無所属一人)に分れていた県会議員は、不鮮明な点はまぬがれないもののほぼ公友会はすべて憲政会に、革新会は県治問題は政党政派に関係せずとの見地より憲政会六人、政友会一二人となり、代議士は五人中四人、県会議員は三〇人中一八人が憲政会に所属することになった(表187)。
 他方、政友会支部は憲政会支部発会に対抗して、原敬総裁ほかを招聘し十二月十四日に福井市に支部総会を開き気勢をあげた。原は同日夜の歓迎会で演説し、そのなかで大隈内閣の干渉により、今日の少数の情勢をみるにいたったことを強調し、選挙干渉をなくすために小選挙区制を主張した(『大阪朝日新聞』大5・12・16)。原の日記によれば大会後の公開演説会には雨中にもかかわらず三〇〇〇人の来会者のあったことが記されている。
 さて、寺内内閣に対し、憲政会は野党にまわり、政友・国民両党はこの内閣のもとで失地回復を策した。五年末召集の第三八議会において憲政・国民両党により内閣不信任案が提出され、翌六年一月に衆議院が解散された。そして四月に第一三回総選挙が挙行された。総選挙に際して内閣は、前回の選挙により、不自然に成立した多数党と少数党の是正を強調し、憲政会批判を行うとともに、地方官の更迭を行い与党に便宜をあたえた。
 総選挙の結果は、政友会一六五(一一一)、憲政会一二一(一九七)、国民党三五(二八)、無所属六〇(四四、公正会三七を含む)となり、政友・憲政両党の勢力が逆転した。そして、政府の援助下で議席を得た無所属議員により「維新会」が組織された。福井県でも政友会二、憲政会一、無所属(吏党系)二となり、憲政会の前議員二人が落選した。野党の敗北は明らかであり、政友会はいちおうその失地を回復したのである(表190)。
 大正六年十一月、ロシアに十月革命が勃発しソビエト政権が成立したが、ロシア内部には内乱状態が現出した。こうした事態のなかにシベリア出兵が朝野の問題となり、内閣は七年八月二日に出兵を宣言する。当時米価は高騰を続け社会不安を兆しつつあった。出兵宣言の翌三日、富山県に米騒動が発生し、以後全国に波及することになる。福井県においても福井市で暴動が生じ、また各地に不穏な情勢が生起した。そのようななか寺内は病気を理由として内閣総辞職を行った。ここに政友会総裁原敬がはじめての平民宰相として登場することになり、九月末に政友会内閣が誕生した。ちなみに、三年七月に勃発した第一次世界大戦は、原内閣成立直後の十一月に終結する。



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