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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    二 政党・政派の変遷
      国民党県支部の解散
 山本退陣後若干の曲折を経て老雄大隈重信が、十六年ぶりに登場する。そこには元老たちの彼の大衆的人気を道具に政友会を膺懲し、懸案の二個師団増設を実現せんとの意図が蔵されており、彼は同志会・中正会をバックに組閣することになった。そして、十二月五日、召集された第三五議会に二個師団増設案を提出、野党多数による否決により衆議院は解散され、翌四年三月に第一二回総選挙が予定された。
 さて、当時の国民党県支部は県会における役員人事をめぐる紛糾により、四分五裂の状態を呈し、『福井日報』(大3・3・23)は「国民党遂に瓦解す」とまで報じていた。これまで同志会よりの勧誘工作をいちおう排除し、その存立を維持してきた同支部も、犬養の内閣非協力により野党化した国民党のもとで総選挙を戦う自信を喪失していた。そして、ついに四年一月下旬に支部は解散し、以後同党の県会勢力は「公友会」を名乗ることになる。また総選挙には『福井新聞』の今村七平専務を同会の候補に推すことになり、同紙は総選挙では内閣支持の立場をとり、しばらく続いた犬養支持の立場を放棄した。
 政友対非政友の戦いとされた第一二回総選挙は大隈の人気に加え、大浦内相の選挙干渉の効果をも発揮して与党非政友の勝利に終わった。同志会一五三(九五)、中正会三三(三六)、大隈後援会一二、政友会一〇八(一八四)、国民党二七(三二)、無所属四八(三三)となり、政友会と同志会の勢力は逆転した(( )内は解散時の議席数、以下同じ)。福井県でも中正会一、同志会一、無所属(大隈後援会)一、政友会二となり、さらに政友会の大橋は選挙後に同志会に移り、県下の政友会勢力もまた少数派となった(表190)。

表190 第12・13回衆議院議員選挙結果

表190 第12・13回衆議院議員選挙結果
 ついで四年九月、県会議員選挙が挙行された。そこでは政友系勢力の挽回がまた同志会系の扶植が試みられたが、結果は表187のとおり前議員三、元議員六、新人二一が当選した。選挙後来県した安達同志会総務は往時二〇人を数えた政友派も今日準政友を加えてもなお七人の少数にすぎないとの談を発表した(『福井新聞』大4・10・19)。
 こうした政況のなか、政党と県治との区別を標榜して県会多数派を形成するために、竹尾・大橋・山口などの同志会勢力と池田ならびに福井日報派の政友会勢力の策動のもとに九月二十四日、両派混合の県会議員により非政社団体「県政革新会」が組織された。常任幹事池田、幹事野尻・広江、顧問竹尾という顔ぶれで、以後県会内池田派形成の発端となった。
 大隈内閣は、大浦事件(第三五議会での増師案通過のための議員買収)でつまづき、内閣の改造後元老の支持をも失って退陣する。ついで山県の推挙のもとに四年十月に寺内毅非立憲内閣が誕生した。さらに内閣成立の翌十月十日、かねて準備されていた同志会、中正会、公友倶楽部の合同が実現し、「憲政会」が創立されたのである。



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