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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    一 大正政変前後
      県民大会後の政況
 護憲運動のうねりは各地に波及し、憲政擁護・閥族打破の声は全国をおおうにいたった。桂はこの危機を克服するため新党(立憲同志会)樹立を画策する。そしてこの企てに国民党改革派が参加、同党は分裂し、犬養を中心とする小勢力と化した。国民党の分裂は県政界にも多大の動揺をあたえた。桂新党よりの誘いは、政友・国民両党の県支部へも差しのべられた。しかし、足羽郡有志大会は吉田円助に新党への不参加を要請、また政友会県支部は幹部会を開き、全員硬派に一致、県民大会の趣旨に沿い支部をあげて行動することを決意した。もはや県下の世論を無視して行動することは不可能であった。
 大正二年(一九一三)二月五日、政友・国民両党は内閣弾劾決議案を提出し、議会は五日間停会した。この間議会周辺は民衆のデモにより一大騒擾に発展し、桂は同月十一日に総辞職し、かわって第一次山本権兵衛内閣が誕生した。『福井日報』は二月十二日の紙面に黒枠で「民党既に勝ち閥族遂に斃る」と大書し、「勝つた勝つた民党は勝った……閥族は斃れた。九日危篤に陥りた桂は十一日午後二時溘焉として死んだ。而して国民は勝つた」と書いた。
 このようにして山本内閣は、政友会と薩閥との提携により成立したが、閥族打破を掲げていた政友会内部に大きな亀裂を生み、硬派の尾崎など二六人は脱党して「政友倶楽部」(後に中正会)を組織した。こうした事態のなか政友会県支部は、再び幹事会を開き硬派の立場を確認し、杉田および県選出代議士に硬派の立場を貫くことを要請した。しかし、結局は硬派の中心であった杉田は留党を決意し、これに三代議士も同調、八田のみが政友倶楽部に入党することになった。
 当時、桂新党による地方新聞の買収工作がひそかに進められていた。一つにはこのような策動を防ぐために、二つには県内国民党系新聞としての旗色をより明らかにするために、『福井新聞』と『福井北日本新聞』の合併が企図され、二月二十五日、創立委員長森広三郎の名で創立総会が開かれた。そして三月一日、両紙の合併が成立、株式会社組織(資本金二万円)をとり、社長森広三郎、専務今村七平、三田村甚三郎・吉田円助・高島七郎右衛門が取締役として名を連ねた(森広三郎家文書)。合併後最初の『福井新聞』は三月三日に刊行され、つぎの信条三章を掲げた。
 一、閥族を掃蕩し、帝国憲法を擁護し、風教を振作し国民道徳を鼓吹す。
 一、懦弱の陋弊を打破し虚栄の風俗を排斥し、勤倹なる家庭を扶植し堅実なる社会を建
    設することを期す。
 一、権威に屈せず富貴に阿らず、既往に泣く弱者の味方となり、社会政策の実現を期す
    。
 憲政擁護運動からの政友会の離脱は、以後の同運動に微妙な変化をもたらすことになる。犬養・尾崎を中心に憲政擁護会の改造が行われ、三月二十四日、第一回の懇親会がもたれる。そして、第三〇議会終了後、国民党・政友倶楽部の地方遊説が進められることになり以後、憲政擁護・閥族打破の旗印は野党の党勢拡張のための性格を濃くすることになった。県下においても犬養、尾崎を迎えて憲政擁護政談演説会の開催が、八田代議士の帰県を機に計画された。両氏の来県時期を国民党県支部創設の記念日に合わせることを本部に要請し、六月十六日福井、十七日武生で演説会を開くことになった。十一日より『福井新聞』紙上に「福井県憲政擁護会国民党福井県支部」の名で同演説会の広告が掲載された。また同紙は演説会の盛況ぶりを十七日の紙面に大きく報道した(資11 一―六)。しかし、同日の『福井日報』はこのことに関しては報道せず、かつての三紙提携による憲政擁護の声は分裂を余儀なくされた。以後、『福井新聞』と『福井日報』の対立は、その紙面構成に明瞭に表わされていくことになる。



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