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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    一 大正政変前後
      大正政変と第一次憲政擁護県民大会
 明治四十五年(一九一二)七月、天皇崩御により大正と改元された。政局は、内閣の行財政整理の方針に対して、陸軍が二個師団増設要求を撤回せず、第二次西園寺内閣は退陣を余儀なくされた。さらに後継内閣の首班には陸軍の長老で、内大臣待従長に就任したばかりの桂太郎が、優諚を背景にして登場した。かねてより藩閥元老や陸軍の横暴に批判が高まっていたおりから、政界・言論界はいっせいに閥族打破・憲政擁護ののろしをあげ、第一次憲政擁護運動の幕が切って落とされたのである。東京では十二月十四日、岡崎邦輔、犬養毅、尾崎行雄や新聞記者などによって「憲政擁護会」が組織され、十九日に三〇〇〇人の聴衆を歌舞伎座に集めて憲政擁護第一回大会が開催された。この年貴族院議員に勅選された杉田は、政友会における硬派の長老として同大会の座長をつとめた。
 大正元年(一九一二)の通常県会では、空席の議長選出問題をめぐって、政友・国民両派の多数派工作が泥沼化の様相を呈し、また副議長を擁する少数派の国民派は、県会運営を強行し県会は紛糾を重ねていた。しかし中央政局の動向は、県会のこのような状況をいつまでも許さず、両派の調停に県政界の長老や言論界が動き、さらに予算案の審議未了を憂慮した知事の仲介により、全県会議員による「県政倶楽部」の結成をみた。県政倶楽部は十二月八日に総会を開き、「時局問題につき西園寺内閣の二個師団増設を峻拒せしは国民の輿望に副えるもの」と決議し、県会議員の名前で西園寺首相に感謝の電報を送り、また政友・国民両党本部に対しても総会決議を打電した。
 年が改まって、休会明けの議会は深刻な様相をはらみ、政友会と国民党硬派とは内閣と真っ向から対決、解散をも辞さぬ動きをみせた。こうした情勢のなか在京中の県選出代議士は八田のあっせんで会合し、その結果二年一月五日に政友・国民両党がそれぞれに幹部会を開くことになった。政友会は、協議の結果十三日午後福井市において、国民党も本部からの弁士来県のうえ政友会と連合して、県民大会を開くことを決めた(資11 一―一六七)。
写真151 憲政擁護県民大会の新聞広告

写真151 憲政擁護県民大会の新聞広告

 このようにして政友会・国民党合同の県民大会開催の合意がなり、両党支部に加えて『福井新聞』、『北日本』、『福井日報』が発起となって、準備が進められた(写真151)。憲政擁護県民大会は予定どおり、一月十三日、昇平座において開催された。当日は定刻前より多数の県民が集まり、大会は松井文太郎県会議員の開会の辞に始まり、杉田を座長として、植木信一県会議員が宣言書を、松村直吉県会議員が決議案を朗読し、破るるばかりの拍手のもとに採択されたという。決議案にはつぎのように述べられている。吾人は現下の政局に鑑み、憲政擁護閥族打破の為め、政友会国民党の聯合提携を以て最も機宣に適したる処置となし、両党同志代議士を督励し、第三十議会に於て閥族掃蕩の行動を執らしめんことを期す。此決議の趣旨に基き行動したる代議士に対しては、議会解散の暁に於て極力再選に努むべし。ついで演説会と同志懇親会が盛会裡に行われ、『福井日報』(大2・1・14)は「前后未曾有の大会合 六拾万県民絶叫の声」といった見出しで報道したのであった。



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