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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    一 大正政変前後
      政友会県支部の再建
 一方、少数派に転落した政友会県支部は、第一一回の総選挙を前に党勢の立直しをはかった。そのためには再び杉田定一と竹尾茂との和解、すなわち坂井、大野両郡の提携が必要であり、それに嶺南を加えたいわゆる「三角同盟」の実現が望まれた。竹尾と杉田の奔走により三角同盟は実現するが、その成立はただちに明治四十五年(一九一二)三月、県会における坂井・大野両郡および嶺南選出の議員その他一七人による同志の盟約締結となり、ついで四月三日、本部より尾崎行雄らを迎えて支部総会が開かれた(表187)。総会では、杉田の指名により竹尾が支部長に推され、竹尾によって五人の衆議院議員選挙委員が指名された。
 このようにして新支部体制が整えられ、さらに総会後、吉田・大野両郡による衆議院議員候補の交替協定が結ばれた。その経過をふまえて吉田郡の有志大会が開かれ、全郡一致して政友会に加盟すること、また全郡の意向として県会議長大橋松二郎を政友会に復党させ、そのうえで衆議院議員候補者に推せんすることを決議した。このことは杉田と竹尾による和解効果の一面を物語るものであり、竹尾の政界復帰に大きく起因するものであった。このようにして総選挙への準備が整えられたのである。また、党勢の補強・拡大と総選挙対策のため政友会県支部の機関紙刊行が是非とも必要とされ、四十五年五月二日、熊谷五右衛門らによって『福井日報』(第二次)の第一号が発刊された。
 このようななか第一一回総選挙が行われ、政友会は坂井・大野・嶺南の三角同盟、さらに吉田・大野両郡の提携のもと、有利に選挙戦を展開した。福井市では本部の調停により鷲田土三郎が立候補を辞退し、八田裕二郎一人にしぼることができた。郡部では、熊谷五右衛門が坂井郡を基盤に今立郡と嶺南の一部に、高島茂平が丹生郡を基盤に足羽・大野両郡の一部および武生の一角に、大橋松二郎が吉田・大野郡を基盤とし、荻野芳蔵も嶺南を基盤にして足羽・大野・今立・南条郡にも進出といった情勢であった。
 一方、国民党は吉田円助が足羽郡を基盤に、吉田・大野・今立・南条四郡の国民党系勢力を背景にして戦い、岡部長が坂井郡東部を基盤に、国民党系として出馬していた。しかし全般的に政友会の善戦が目立ち、五月十五日の投票の結果、政友会公認四人、国民党公認一人が当選した(表188)。なお、今回の選挙で、吉田・坂井・大野三郡の提携が成功したことは、各候補者の三郡における得票数が物語っていた(表189)。このように、総選挙ならびに吉田・坂井両郡での県会議員補欠選挙に勝利をおさめた政友会県支部は、七月十八日に合同懇親会を開き、県会議員一八人を集め、その勢力をもって十一月の通常県会に臨むことになった(表187)。

表188 第11回衆議院議員選挙結果

表188 第11回衆議院議員選挙結果


表189 第11回総選挙3郡別得票数

表189 第11回総選挙3郡別得票数



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