目次へ 前ページへ 次ページへ


 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    一 大正政変前後
      立憲国民党県支部の結成
 『北日本』と『福井新聞』とが協力し、県政界に一つの波紋を投げかけた減租運動は、県下の非政友派勢力に新しい息吹きをあたえることとなった。一方これと前後して、中央では第一〇回の総選挙により議会に多数を占めた政友会に対し、漸次その横暴を非難する声があがり、非政友派による合同や新政党樹立の計画が進められた。その結果、明治四十三年(一九一〇)三月、「大同倶楽部」と「戌申倶楽部」の一部および若干の無所属議員が合同して「中央倶楽部」が、続いて憲政本党を中心に「又新会」ならびに旧戌申派の一部が合同して「立憲国民党」が結成された。こうして、これら装いを新たにした各党とそれに対応する政友会は、党勢拡張のために地方遊説を行った。福井へも七月三日、犬養毅・河野広中・島田三郎などの国民党の一行が来県し、『福井新聞』、『北日本』の周旋によって政談演説会が行われ、さらに十月二十四日には政友会の原敬一行が県支部大会に臨み、市内昇平座で演説会を行ったのである。
 四十三年末から四十四年初頭の『福井新聞』は、しばしば県政界における新しい勢力の台頭を予告していた。それはいうまでもなく県下における非政友勢力の結集であり、従来政友会の杉田・竹尾両派の中間に位置し、そのキャスティングボートを握ってきた非政友勢力の統一であり、国民党県支部の旗あげであった。
 当時の県政界は、県会多数派の県友会が主導して無風状態であった(表187)。四十四年九月の県会議員改選が近づき、旧若越倶楽部は失地回復をねらい、県友会は少なくとも現状維持を考えていた。こうした情勢のもと四十四年三月、第二七議会閉会後、政友・国民両党の地方遊説が再び始められた。四月には政友会の松田正久総務一行が来県し、政談演説会が福井・敦賀で開かれた。

表187 県会議員名列(明治41〜大正5年)
表187 県会議員名列(明治41〜大正5年)
 また、六月下旬には国民党の犬養一行の来県が予定されていた。すでに、前回の犬養一行の来県のころから、ひそかに準備の進められていた国民党県支部設置が、再度の来県を機会に計画されたのである。六月八日、三田村甚三郎など有志代表三〇余人が市内山海楼に集まり発起会を開き、翌九日には発起人約七〇人で、国民党県支部設置が発表された。それは『福井新聞』が、「県下政界の革命」と報じたように、政友会王国ともいわれてきた県政界に大きな波紋を投じた。しかし、発起人の内訳をみると、丹南三郡と大野郡・嶺南四郡の県会議員が一三人、旧若越倶楽部所属の涜職事件関係者が一七人で、ほかはほぼ丹南三郡の有力者であった。そこにはいろいろの政治的思惑が秘められていたことも否定できない。予定どおり六月十七日に支部発会式が一五〇人を集めて開催され、左の決議案を決議した。一、税制整理を断行し、国民の負担を軽減すること。二、義務教育費を国庫負担とし、地方の資源に余裕をもたせ、地方財政の整理、産業の発達をはかること。三、高等工業学校を設立し、重要輸出品たる絹織物の発展を期すること。そして、支部幹事に土生彰、長谷川豊吉、高田安之介、比良野直、大橋松二郎、吉田円助、森広三郎、高島仲右衛門、三田村甚三郎を選定して議事を終わり、午後の政談演説会には三五〇〇人の聴衆がつめかけた。なお、県支部役員は、後日幹事長に森、常任幹事に土生・長谷川が選ばれ、さらに秋の総会において、常任幹事に宇野猪子部、今村七平が、幹事には比良野にかわり小林彦、松原五十三が追加された。
 このような県政界再編のもとに同年九月、県会議員選挙が行われた。結果は国民派一八人、政友派一二人となり、国民派が多数勢力を占めることになった(表187)。



目次へ 前ページへ 次ページへ