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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第三節 政党政治の展開
    一 大正政変前後
      減租問題有志大会
 明治四十一年(一九〇八)の県会議員涜職事件により二〇人の「若越倶楽部」所属の県会議員が失格し、県政界における竹尾派の勢力は大きく後退した。他方、四十年秋の脱党組の復帰、四十一年総選挙の全勝と、その党勢を立て直した政友会県支部は、県会において丹南三郡(丹生a今立a南条郡)派の大部分と提携して「県友会」を組織し、ともかくも多数派を形成した。しかし、県政界の内部には種々の不安定要素が潜在し、県民一般に政治に対する不満が醸成されつつあり、現状打破の風潮が徐々に高まっていた。
 四十二年末に開かれた第二六議会においては地租軽減をめぐる攻防が展開される。第二次桂内閣は、日露戦後の国民負担の均衡をはかるための税制整理と官吏増俸を課題としていたが、戦時税据置のため地租過重に苦しむ農民層への配慮を欠いていた。また議会の過半数を制する政友会も、政府の官吏増俸案を認める代償として地租五厘減を獲得するといった姑息な妥協案を策していた。こうした内閣と政友会との妥協策を排し、少なくとも地租一分減の実現をめざす減租運動が全国各地で進められることとなった。
 県内においても非政友系勢力が音頭をとり減租問題有志大会が開かれることになり、このことは県政界に新しい波紋を投ずる契機となった。森広三郎貴族院議員、長谷川豊吉『北日本』新聞主筆、土生彰『福井新聞』主筆が提唱者となり、まず四十三年一月十一日、県会議員や地租納税者が協議会を開催した。協議会は、官吏増俸のための一三〇〇万円などを財源とした地租一分減を貴衆両院へ請願することや有志大会開催などの四項目を決議した。有志大会の首唱者七二人のなかには全県会議員が含まれていた。
 そして『福井新聞』は、連日にわたり有志大会の意義を強調し、世論の喚起に精力的であった。そこには多分に県内非政友会勢力結集の意図が蔵されており、また、官僚内閣と政友会との妥協政治に不満を強めていた世論を意識してのことでもあった。一月十六日、福井市の昇平座で予定どおり有志大会が一一〇〇余人が出席して開かれ、宣言書、決議案が決議された。宣言書では、戦時特別税が戦後数年を経た今日にいたっても廃止されないのは政府の公約違反であり、そのため重税と物価上昇により「農民の疲弊今日の如く、産業の萎靡斯の如くんば、国家の前途実に憂慮に堪へざるなり」と述べ、政府を激しく糾弾するとともに、つぎの三項目が決議された。
 一、福井県農民協会を組織し、農民の利害に関する時事問題を評決する。
 一、地租税率の復旧は、わが国財政の現状に鑑み四十三年度においてまずその一分
    の軽減を期す。
 一、輸入穀物に対する関税定率を引上げ、農業経済の発達を期す。
ついで農民協会の評議員三〇人と上京委員六人が森座長により指名され、大会は終わった。
 以後、上京委員は県出身の両院議員や在京県人に働きかけ、農民協会東京事務所を設置するなど運動を進めたが、結局、減租問題は政府と政友会の妥協により八厘減で落着するにいたった。そこで県農民協会上京委員と在京委員は二月九日、臨時総会を開き、政友会が財源があるにもかかわらず地租八厘減で妥協したのは、大いに遺憾であり「今後本県選出議員を督励して、飽迄本会の目的を達せんことを期す」と決議した。そこには、ともすれば政友会が減租廃税問題を軽視するのは、その標榜する積極政策のためであるという強い批判があり、またこのような運動の根底には、世論を創出し、その世論を背景にして政局の転換をはかろうとする意図が伏在していたのである。



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