第一次世界大戦後、さまざまな婦人団体が結成され、婦人の社会性や社会的地位の向上をめざす運動が展開された。朝日新聞社などが主催する婦人大会も各地で開催され、それが紙上に大きく報道されたことも婦人の社会参加への意識の高まりを助長していた。官製の処女会などは概して不評で、たとえば敦賀郡長主導で設置された敦賀郡処女会に対して、朝日新聞は一婦人の意見としてその役人的形式性を批判していた(『大阪朝日新聞』大9・9・16)。
明治五年(一八七二)十月の太政官布告第二九五号で人身売買の禁止と娼妓芸妓の年季奉公が禁止された。しかし、この布告では芸娼妓の借金返済の無効を決めただけで実質的な解放にはならず、かえってこの時期に鑑札制度や貸座敷制度の抜け道によって公的に売春を管理しようとする公娼制度が確立されることになる(資17 「解説」)。その後、自由民権期に群馬県会が廃娼を決議し、福井県でも二十二年、白崎市太郎が廃娼の建議案を県会に提出したが否決された。
廃娼運動は、明治・大正・昭和戦前期を通じて矯風会などのキリスト教団体が中心となって行われた。とくに、第一次世界大戦後に設立された国際連盟第一回総会で婦人児童売買禁止の問題が議題とされたこともあり、日本の公娼制度は国際的批判をあびることとなった。このようななか大正十五年(一九二六)に、内務省は「自由廃業の手続」「年齢の引上げ」「外出制限の撤廃」など公娼制度の改正を省令で行った。福井県でも同年十二月から「娼妓取締規則施行細則」と「貸座敷営業取締規則」を改正施行した。また、同年九月には廓清会・矯風会・救世軍など二〇余の団体が国際連盟協会の名のもとに公娼廃止を目的とした国民委員会を結成した。
廃娼運動の「婦人闘士」とされた矯風会の林歌子は大野郡出身であり、また廃娼連盟の主事であった西内天行も旧福井藩士の子弟であったことなどもあり、福井県ではこの時期比較的廃娼運動が盛んであった。大正十五年十月の第一回全国廃娼同志会には、福井県から日本メソヂスト教会の牧師宮之原信次郎・山下篤志・坂本清の三人が参加した。また、大野郡の青年団が公娼全廃を決議し、これを県連合会に提案しようとする動きもあった。このようななか、坂本が中心となってキリスト教関係者が十五年末の通常県会に最終的な廃娼を前提とした新規営業の不許可を求めた「娼妓稼及貸座敷営業の制限に関する請願」を提出していた(『福井新聞』大15・10・13、11・11・14)。 |