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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    五 さまざまな市民の運動
      電力料金値下げ運動
 大正九年(一九二〇)九月に結成された福井立憲青年党は、党勢拡大をねらい翌十年秋に三四〇〇人の市民有識者に往復はがきで、市政が取り組むべき問題をアンケートしていた。そのなかでもっとも回答の多かった「市営住宅の促進」「電灯光力の増加」「市営瓦斯料金の値下げ」には調査委員を設けて当局と交渉することを決議した。立憲青年党も戦後恐慌期を迎え、運動を持続させるためには普選運動だけではなく、このような市民生活に直結した運動にも取り組む必要があった(『大阪朝日新聞』大10・11・25)。
 市営住宅問題と関連して、福井市では十年に借家人組合が結成され、家主の家賃値上げに対抗し、また市営住宅の急設を市当局に請願していた(第四章第四節二)。しかし、大正十年代の「慢性不況」は、県下では住宅需要の大きな拡大はもたらさず、ふたたび借家人の運動が起こるのは昭和四年末になってからであった。この四年末から五年にかけての運動は、住宅需要の逼迫にもとづくものではなく、物価下落にともなう家賃値下げ運動であり、武生・鯖江・敦賀町など県下の他の町部に波及した(資11 一―三六六〜三七二)。
 福井県の電力料金問題は、明治末からの絹織物業の急速な電動機化にともなう電力不足問題とも関係して、大正期を通じてつねに機業家からの料金引下げ要求として起こっていた(資17 「解説」)。第一次世界大戦後の大正十二年以降昭和五年ころまで電力料金は漸減傾向を示すが、電灯料金はほぼ横這いであった。とくに、昭和期に入り物価指数が下がるなかでも、光熱費の指数は上昇していた(『現代日本産業発達史』、『長期経済統計』八)。
 大正十五年秋に福井市を中心に嶺北地方に大きなシェアをもっていた京都電灯福井支社は、機業家の要望に答えるかたちで電力料金の二割値下げを決定した。この値下げに刺激をうけて市民の間に電灯料金の値下げを望む声が高まっていた(『大阪朝日新聞』大15・10・5)。
 昭和二年にはいると、福井市会では「市長鞭撻委員会」を設けて、電力電灯二割値下げを決議した。委員会は、区長を招集するとともに、組頭総代会やさらには市民大会開催の計画を立て、また要求が入れられない場合は料金不納運動や市営電気事業を計画するなどの決議を行い、京都電灯福井支社へ値下げ圧力をかけていた。四月上旬には市会議員や飛島文吉が京都本社に出向いて、六月からの値下げを交渉し、本社側は五分〜一割の値下げを九月から実施したいと回答した。しかし、京都電灯福井支社は、市民の世論を背景にした市当局や市会の早期実施要求と妥協をはかり、五月十四日に七月一日からの平均五分程度の値下げを発表した(『大阪朝日新聞』昭2・3・3、12、29、4・10、5・15)。
 この京都電灯福井支社の値下げが発表されると、電灯料金値下げの動きは県下各地に波及した。六月には坂井郡町村長会が各電気会社に値下げ要望書を提出し、八月には越前電気会社が武生町会との値下げ交渉の結果、十月一日よりの平均五分の値下げを発表した。さらに、翌三年十月には敦賀において社会民衆党敦賀支部が京都電灯敦賀支店に対して電灯電力料金の二割値下げを要求し、期成同盟会を組織し運動を行った。さらに翌四年三月には商業会議所や区長会も値下げ運動に乗り出し、運動は全町的広がりをみせた。十一月には会社側は十二月一日からの一六燭は七三銭を七〇銭に、二四燭は九五銭を八三銭にするなどの値下げを決定した(『大阪朝日新聞』昭2・6・22、3・10・10、4・3・26、11・30)。



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