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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     四 部落解放運動
      水平運動の展開
 水平社による解放運動の中心にすえられたのが、差別者・差別行動に対する徹底的糾弾であった。全国水平社の機関紙である『水平新聞』、全国水平社青年同盟の『選民』、『福井新聞』などをもとに県内各郡でどのような糾弾闘争が行われたかをみていこう。
 敦賀郡では、郡内の被差別部落が水平社を結成することはなかったが、有志によって差別糾弾が行われた。大正十五年(一九二六)には、授業中に「差別的侮辱」の言葉を吐いた敦賀高等女学校校長に対して、三方郡内の水平社の応援をえて、徹底的糾弾を行うことが報じられていた(『福井新聞』大15・3・14)。
 また、十五年一月の福岡第二四連隊差別事件をきっかけとして、軍隊内での差別糾弾闘争が全国的に始められたが、同年四月、敦賀第一九連隊でも差別事件が起こった。「靴工はエタのする仕事である」とする差別的言辞に対して、被差別部落出身の兵士はこれを見逃さず、発言者個人の責任を追及するとともに、差別を許容する土壤が連隊にあるとして、差別撤廃講演会の開催を要求し、これを実現させた。同連隊の将兵全員の前で、約一時間に及ぶ水平運動に関する講演を行った。
 三方郡では、大正十三年三月、消防演習時に差別的言辞を吐いたとして糾弾が行われた。そのさい、二人の被差別部落住民が差別発言者を殴打したということで傷害罪に問われた。差別言動を行った者が素直にその非を認めない場合、追及する側が思いあまって腕力に訴えるということもあった。
 また、昭和八年(一九三三)十二月、村長の「暴言」をきっかけとして、被差別部落の人びとは、「一糸乱れず税金不納同盟」を結び、ついに村長を辞職に追い込んだ。そして、これを機会に多年問題となってきた神社の氏子加入、役場吏員への採用などを要求していった。
 遠敷郡では、大正十五年夏、薬剤師資格を持つ同郡の被差別部落出身者が、組合立小浜病院に採用されることになったが、一日も出勤しないうちに解雇された。病院当局は、「水平社に突込まれると困るから渋々採用」したが、被差別部落民を雇入れるならば辞職すると言いだす者が出たり、組合会議員が総辞職する意向を示したりしたので、採用を取り消したということであった。福井県水平社では、県大会を開き、病院を徹底的に糾弾することを決議した。その後一年に及ぶ糾弾闘争が行われたが、頑迷な病院当局を翻意させることはできず、昭和二年八月一日の『水平新聞』には、さらに村民大会・水平社大会・批判演説会を開催し、「大衆的世論と大衆的抗議」によって、解決をせまっていこうとする動きが報告されている。
 また昭和八年十一月には、郡内の小学校で起こった差別事件の解決策として、当初、学校側は差別撤廃講演会の開催を約束したが、のちにこれを拒否する事態が起こった。それに対し同郡水平社は、児童の同盟休校と税金不納で戦う方針を立て村長と交渉し、村民全体に聞かせるための差別撤廃講演会と小学校児童のため差別撤廃講演会を開催することが約束された。その際、講師は全国水平社より選定し、講師の旅費、その他費用は村費で負担することとされた。
 大飯郡では、昭和十年九月、「県下第一の模範部落」とされ、「融和団体の金城鉄壁地であり、全水未組織地」であった同郡の被差別部落で、氏神祭礼差別事件が起こった(『水平新聞』昭10・10・5)。同区は隣接区と同一神社の氏子であったが、氏神の祭礼行事上で差別待遇をうけてきたことに抗議して、祭礼の平等化を求めて立ち上がった。全国水平社、遠敷・三方郡内水平社の応援のもとに演説会・部落民大会を開催し、ついに県当局と村長の調停をえて、氏子総代の平等選出、「例祭の行事当番一年交代」の輪番制などを隣接区に認めさせた。
 しかし、十月に入り差別問題は再燃した。同意したはずの隣接区が、「例祭の行事当番一年交代」とは、練物・舞の出し物の後先を一年交代にするという意味ではなく、祭礼を分離し、行事は一年交代で一区だけでやることだと表明したからである。同区は全国水平社の応援をうけ、区民大会を実施し、村長への不信を声高に表明し、正副区長の辞職、児童の同盟休校を決議した。そして、ついに村長の陳謝をえて、さらに隣接区との直接交渉に臨み、祭礼の平等・共同実施を認めさせるにいたった。他方、調停にあたった県社会課主事の態度は、「口に融和を唱へて行ひで差別を助長し、両区民の間に溝を作らうとした」ものとして、県の融和対策の姿勢がきびしく批判された(『水平新聞』昭10・11・5)。
 この祭礼事件をきっかけとして、同年十月、同区に水平社が結成されることになった。そして、翌年三月には全国水平社福井県連大会が、同区の寺院で、全国水平社本部から松本治一郎代議士、常任理事三人を迎えて開催された。この大会では、地方改善費増額、融和事業施行の自主権獲得、部落厚生運動強化などの要求が協議、決定された。
 以上郡ごとに差別糾弾闘争をみてきたが、県水平社・各郡内水平社は、身近な差別糾弾闘争のみに水平運動を限定したわけではなかった。福井県は、水平運動の高まりのなかで、これに対抗するために地方改善事業を行う一方で、昭和八年四月に「福井県親和会」を県庁内に設立し、いっそう融和政策を推進した。これに対処して、水平社では地方改善費や応急施設費の獲得闘争をとおして生活改善をめざした。また同年には、高松地方裁判所差別裁判事件に対して、取消請願隊に代表を派遣(三方郡内の水平社では一戸五〇銭を拠出)するなど、全国水平社の運動に連帯する行動も行った。
 さらに、全国水平社が身分差別撤廃を求める戦いを階級闘争の一環としてとらえ、社会変革をとおして身分差別を解消することを目的として、社会主義・無産運動と連携したことに対応して、大正十四年九月の福井県水平社青年同盟第二回大会では、全国水平社無産者同盟・全日本無産同盟準備委員会に組織加盟を決定している。
 その具体的な運動の一つとして、昭和六年十一月に北川河川改修工事労働者を中心として結成された「若狭自由労働者組合」の活動をあげることができよう。同組合には被差別部落の労働者と朝鮮人労働者が数多く結集し、創立大会宣言において同組合は、「内鮮自由労働者の鞏固なる組織」と位置づけられている。その綱領には「全被圧迫階級の解放と新社会の建設の為に闘ふ」ことが掲げられ、今まで不当に差別されてきた人びとが連帯して戦うことを明確にしていた。同組合では河川改修工事労働者の解雇予告をめぐって、全国労農大衆党若狭支部と提携し、争議団を組織して雇用者である内務省管轄の北川改修工事事務所と交渉を重ねたが、最終的には解雇を押しとどめることはできなかった。しかし、朝鮮人労働者と日本人労働者が団結して労働争議を行ったことは、意義深いことといえるだろう。



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