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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     四 部落解放運動
      水平社の設立
 明治初年、県内の「えた」・「非人」と称された人びとの戸数・人口は、嶺北地方で二〇四戸・七七二人、嶺南地方で一四七〇人(戸数は不明)であった(『新版 部落の歴史と解放運動』、「藩制一覧」)。なお、大正十年(一九二一)から昭和四年(一九二九)八月までの政府資料にもとづいて作成された「被圧迫部落概観調査」によれば、県内の被差別部落数は五か所で戸数四七八戸・人口二三一八人となっていた。
 明治四年(一八七一)八月の太政官布告第四四八・四四九号によって、近世以来「えた」・「非人」と称され差別されてきた人びとは、その呼称を廃止され、身分的束縛から解放された。しかし、賎民身分は制度上は廃止されたものの、部落差別は、近代社会にも根づよく残された。また、経済的措置がまったく講じられずに、それまでの斃牛馬の処理権を奪う布達が出されたため、小作・日雇・藁製品加工などに従事し、より劣悪な経済的条件下におかれることになった。
 明治期から大正の中期までは、全国的にも福井県においても、部落差別の解消のための積極的な施策が実施されることはほとんどなかった。政府は地方改良運動をすすめるなかで、自主的な部落改善運動という名の自助努力を促すだけであった。しかし、大正七年の「米騒動」に多くの被差別部落の人びとが参加したことは、政府に大きな衝撃をあたえ、翌年はじめて五万円の部落改善予算が計上され、上からの恩恵的な差別解消=融和政策が本格的に取り組まれることになった。
 各地の被差別部落の人びとによる、あるいは行政側の肝いりで融和団体が結成されるなかで、同情融和を拒否し真の「解放」を自らの手で勝ち取ろうとする動きが生じる。それが水平社の結成であった。十一年三月、京都市で全国水平社創立大会が開かれた。「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まる水平社宣言には、多年にわたって虐げられてきた人びとの解放への万感の思いが充満している。そしてその綱領には、上からの恩恵的な部落改善・融和政策を否定し、「特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」と記されていた。
 十二年、全国水平社の結成から遅れること一年あまりのち、三方郡・遠敷郡・大飯郡の三被差別部落で次々に水平社が結成され、さらに福井県水平社の成立をみた。



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