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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      全農県連と四・一六事件
 労農党から出馬した田村仙之助は、官憲によるきびしい選挙妨害のなか総選挙を戦ったが、獲得投票数三九七四票は法定得票数に達しなかった。また、投票数のうち三〇六七票が丹南三郡のもので、他郡でのまとまった支持を獲得できなかった(『福井新聞』昭3・2・24)。さらに総選挙直後に共産党員が大量に検挙された三・一五事件に連座するかたちで、労農党は解散を命じられた。労農党福井県第二支部(大野)も、四月十五日に解散声明書を出していたが、そのなかで別なかたちでの大衆闘争の継続を訴えていた(『北陸タイムス』昭3・4・21)。福井県でも農民組合、無産政党の統合・再編の必要性が叫ばれていたのである。
 第一回総選挙の三か月後、昭和三年(一九二八)五月に、日本農民組合と全日本農民組合は合同して全国農民組合(以下、全農と略記)を結成した。創立大会に出席し、中央委員となった田村仙之助は、六月に日農県連を改組して全農福井県連合会(以下全農県連と略記)を結成したが、余田や平出との合同は実現されなかった(『日本社会運動通信』四、資11 一―三〇四)。
 この全農県連結成時に本部へ提出された支部数・組合員数は、三五支部・七一二人であり、四月よりはやや減少していた。また、その勢力範囲も南条郡一三支部・一八〇人、今立郡一〇支部・二七三人、丹生郡一二支部・二五九人であり、従前どおり丹南三郡に限られており、全農県連の結成は日農県連の分裂を克服できなかった(図46)。七月一日の全農県連の第一回執行委員会で、本部より派遣された杉沢博吉が常任書記に任命され、巡回座談会や夏期講習会の実施により組織の拡張をはかろうとしたが、県外追放にあい、九月には県の雇員であった木下利男と本部派遣の今江五郎が常任書記になった。木下は、芦原村の不正糾弾事件で逮捕され、八月の保釈後も「新党組織準備会、労働組合、ナップ等種々の組織に対する見通し、今後の対策等々で多忙を極め」ており、九月二十日に全農県連事務所に着任していた。彼は、本部への着任の報告書のなかで、全農県連事務所のことをつぎのように述べていた(資11 一―三〇〇)。
  以前からの書類等から一先づその推移を見やうと思つたが、何にもないので、薩張り
  解らない、前々の常任書記は、何等書類すらも整理して居なかつた、前の杉沢君は、
  漸くプランを樹てた処を、県外追放に会ひ、その後はもう滅茶苦茶だ、二三日前からど
  うにか本部からの指令通知等を纏めてみた、総てに於ける乱脈振りは、その点のみ
  でも察せられる。
図46 全農福井県連合会結成時の支部

図46 全農福井県連合会結成時の支部

 急速に拡大した日農・全農県連内部の混乱ぶりを伝えているが、福井県の無産運動の全般にかかわっていた木下が、全農県連の指導権を掌握していたことは、運動がより政治的になる可能性をもち、かつ官憲の目はますますきびしくなっていた。十二月には県連事務所の捜索があり、そのことについての彼の本部への報告のなかには「以後の通信に就いて絶対に中央委員田村仙之助宛に通信しない事」とあり、二年から三年のなかごろにかけて小作争議の先頭に立っていた田村の排除は決定的であった。事実、同月には県連事務所が武生町幸区三五番田村仙之助方から同町浪花一六に移転していた。
 このような内部対立と官憲の監視のなか、労農党解散ののち三年秋に全農大野支部を結成し奥越での小作人の組織化をめざすが、県連加盟の支部数や組合員数は、徐々に減少していた。この傾向を決定的にしたのが翌四年の四・一六事件であった。四月十六日未明、県連事務所は強制捜査をうけ、木下や大野支部の役員が逮捕された。このほか大野の事務所や福井市の木下の実家など六か所も家宅捜査をうけ、逮捕されたものは七人にのぼった。県下の無産者運動に専従していたものの大半が逮捕されたといっても過言ではない。この弾圧は、全農県連からの脱退に拍車をかけ組合員数が最盛期の半数になるとともに、昭和恐慌のなか小作争議は減少し、また争議においても地主の攻勢が強まっていった(「福井県日農全農関係資料」)。



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