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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      日農福井県連合会の結成
 「第一回立入禁止反対デー」の昭和二年(一九二七)六月十八日、南条郡武生町の大勝座で、日農福井県連合会(以下、日農県連と略記)の第一回大会が開催された。日農県連の結成については、前年の大正十五年八月に本部より、石本楠太郎、行政長蔵が来県した際、平出支部長内藤弥兵衛との間で連合会設置の協議がまとまっていた(『福井新聞』大15・8・18)。また、大原社会問題研究所の「福井県日農全農関係資料」のなかには、十五年の日付がある「武生町平出区内内藤弥兵衛方福井県連合会」などと記した本部あての書類が数葉残されている。したがって、第一回大会は、正式の発足を公表し、連合会のいっそうの拡大をはかるためのものであった。実際にこの大会は、組織拡大に大きく寄与し、大会開催時の一五支部・組合員数約三〇〇人が、翌昭和三年の四月には、四三支部・九三五人にまで急速に増加していた(資11 一―二九六)。
 第一回大会は、「厚司かけ」(仕事着)の組合員など三〇〇人が集会し、議長に佐々木新太郎(平出)、副議長に田村仙之助と近藤長三郎(余田)が選出された。ついで書記に西尾茂が、また資格審査・交渉、法規、決算、建議、予算の各委員が任命された。これら委員は田村を除くとすべて農業に従事する自小作または小作人であった。午後には、田村が連合会の情勢報告を行い、さらに、表185のような本部および各支部より提出された議案が審議され、役員の選出が行われた。内藤弥兵衛執行委員長、佐々木新太郎組織財務部長、田村仙之助政治教育部長といった役員構成であり、内藤や近藤を支部長とする平出・余田支部が主導権を握っていた(『福井新聞』昭2・6・18、『武生中央新聞』昭2・9・11、資11 一―三〇四)。

表185 日農福井県連合会第1回大会提出議案

表185 日農福井県連合会第1回大会提出議案
 また、翌十九日には前日の日農福井県連合会の決議をうけて、労働農民党(以下、労農党と略記)福井県連合会の発会式が本部より西光万吉や水谷長三郎を迎えて挙行された。九月に行われる県会議員選挙への候補者選出を協議した。表186は、当日選出された役員名列であるが、日農福井県連合会の役員とほぼ同じである(『北陸タイムス』昭2・6・19)。

表186 労働農民党福井県支部連合会役員

表186 労働農民党福井県支部連合会役員
 二年九月の県会議員選挙には、労農党より南条郡からは内藤弥兵衛が、丹生郡からは永宮源四郎が立候補し、それぞれ一一〇〇余票・一三〇〇余票を獲得し善戦した。しかし、翌三年の普通選挙による総選挙をひかえて、日農県連内に田村仙之助の労農党からの出馬をめぐって対立が生じた。丹生郡を地盤に政友会から出馬した佐々木久二を余田支部が支持し、これに平出支部が呼応したため、日農県連は大会を開き、内藤委員長や佐々木組織財務部長を除名し、田村が委員長に選出された。この結果、余田と平出支部は日農を脱退し、全日本農民組合に加盟した。
 田村は、衆議院選挙に立候補したときは三六歳であり、法政大学法科を卒業し、武生町で印刷業を営むとともに、『武生中央新聞』を発刊していた(『大阪朝日新聞』昭3・1・28)。この田村派と内藤派との対立は、直接的には総選挙をめぐる対立であったが、『武生中央新聞』と対抗関係にあった『北陸タイムス』(昭3・2・25)は、日農県連の分裂の実態を実際百姓の気持ちも知らない、又貧乏人の気持ちなどには少しも頓着ない学者や洋服を着た学生等が入込みむつかしき小理屈で百姓を大地から離して宙に浮くやうな運動をやり、益々政党問題を中心に露骨となつて来たといふことである。とし、田村派に対する揶揄的記事をのせていた。この批判は、直接的には少数急進派による労農党大野支部の設立問題や芦原村の水道事業にまつわる不正糾弾大会へ東京の学生が多数参加していたことをさしていると思われる。しかし、この田村派と内藤派対立の根底には、運動方針をめぐる対立とともに、日農県連が急膨張したことにともなう組織運営の事務能力の問題があったと思われる。農業に従事する自小作・小作農が日農県連の専従になることは困難であった。これ以降、中央での日農の離合集散、無産政党の分裂と軌を一にして、日農県連も常に内部対立を抱えていくことになる。



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