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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      丹南三郡の小作争議
 丹南三郡は、小作地率が五〇パーセントをこえ、県内ではもっとも地主制が進展していた地域であった。また、この地方の五〇町歩以上地主五人の土地所有は数郡にまたがるものが多く、福井県では不在地主型村落が比較的多かった地域と推定できる(大正一三年『五十町歩以上ノ大地主』農商務省)。さらに武生・鯖江町周辺村落では、機業や商業への賃労働の機会が多かったことも、丹南三郡がこの時期の小作争議の中心地となった原因の一つと考えられる。この丹南三郡において、この時期の小作争議の特色を示す二つの争議事例についてみてみよう。
 今立郡北日野村矢船の小作争議には、大正十五年(一九二六)に福井県で最初に小作調停法が適用された(資17 「解説」)。矢船は、農家戸数三一戸のうち二八戸が小作農であり、そのうえ耕地の六割強を他村の地主が所有している典型的な不在地主型村落であった。このため矢船には、大正二年に地主九人の出資による「日野耕地株式会社」が設立され、小作地の管理が行われていた。また、十二年以降小作料の三割減要求をめぐって、会社と小作人の間に確執が生じており、翌十三年三月には福井県ではもっとも早く日農加盟の小作人組合が結成されていた(資11 一―二八三、二―二三)。
 こうしたなか、十四年度小作料について、小作人二六人は、病虫害による不作を理由に旧俵一俵(四斗六升)に対して一斗六升の減額を要求する争議が起こり、年貢米二七七石のうち一三〇石を納付するのみで残りは不納同盟を結んでいた。交渉により会社は八升減まで、小作人側は一斗一升減まで歩み寄っていたが、最終的に妥協が成立せず、会社が十五年四月二十日に裁判所へ調停を申立てた。五月七日の二回目の調停委員会で、十四年度小作料旧俵一俵について九升減と十五年度以降の四升永久減で調停が成立した(資11 一―二八三)。しかし、小作人が九割を占める矢船では小作人の団結が強固であり、また小作人組合も日農およびその後の全国農民組合福井県連合会の中心的支部でもあり、昭和期に入っても連年のように小作料減免要求をめぐる対立が生じていた。
 丹生郡吉野村余田(武生市)の小作争議は、大正十五年から昭和三年(一九二八)にわたるもので、関係耕地面積約三〇町の十五年度小作料の三割減と二年以降の二割永久減を、小作人が要求したことに起因していた。関係地主約一〇人のなかには他大字の地主が含まれ、一方、小作人約五〇人は全員日農加盟の小作人組合員であった(『日本社会運動通信』八)。吉野村は武生町の近郊農村で、明治四十四年で田四二四町のうち小作地は三〇一町で、小作地率は七一パーセントにも達していた。村内には五〇町をこえる地主も存在し、地主の土地所有は大字をまたがり複雑であった。また、農家戸数四二一戸のうち三二八戸が兼業であり、小作人の多くは賃労働などによる副業収入をえていた(『吉野村誌』明治四四年)。
 大正十五年三月には日本農民組合吉野支部(支部長永宮源四郎)として、氷坂二二人・片屋一三人の三五人が日農に加盟し、その後勢力を拡大し、余田五六人・芝原二二人・家久二人などと日農への加盟があいつぎ、昭和二年にはほぼ全村に小作人組合が結成された。また、同年三月には、安倍磯雄を迎えて「吉野村共栄会」が結成され、村政の改善や地主と小作人の融和を綱領に掲げていた。しかし、同会は、当時は無産政党的なものとされていたようで、四月の農会総代会選挙で、定員二〇人のうち共栄会員が八人・日農加盟員が七人当選したことを、新聞は「無産農党勝利」「一五対五で農会を掌握す」と報じていた(「福井県日農全農関係資料」、『社会政策時報』昭和二年六月、資11 一―二八五〜二八七)。
 このような小作人組合結成などの状況は、同村での小作争議発生と密接な関係があった。十五年の氷坂・片屋の三五人の日農加盟の小作人組合は、前年度の小作料六升永久減(旧俵四斗六升を新俵四斗に)に対する地主の土地引上げ要求などの反攻に対応するために結成されたものであった。
 この氷坂の六升永久減額が、吉野村全村での小作争議の要求基準となり、余田の争議も十五年度凶作による小作料の一時減免とともに永久減額が要求の中心であった。余田の小作人五六人は、昭和二年三月には小作米一二〇〇俵を武生町の米穀商店に売却した。その模様を新聞はつぎのように伝えていた(資11 一―二八七)。
  今立郡北日野村矢船、丹生郡吉野村芝原、片屋、氷坂の各組合員が応援して、四五
  十台の大八車につみこみ、廿八、九両日にかけ武生町に搬出する有様は実に地主に
  対する示威運動で、言語に絶する物凄さを呈してゐた
 この記事で注目されるのは、他大字や他村の日農組合員である小作人との提携がなされたことであるが、一方、地主は小作米支払を裁判所に訴訟し、争議は裁判所へもちこまれた。地主側は小作地の賃貸借を主張し、小作人は大阪より水谷長三郎弁護士を迎えて小作地の永小作を主張した。さらに三年四月には、地主側は土地明渡し仮処分を申請し、五月に裁判所は土地立入禁止の判決を言渡した。地主は小作地の耕作を隣村の馬耕組合に請け負わそうとするがうまく行かず、一方小作人側は児童の同盟休校を一週間にわたって実施するなど双方が鋭く対立した。最終的には、六月十二日に地主側の強硬派が折れ、一俵につき六升永久減額と奨励米二升給与の条件で調停が成立した(資11 一―二八八〜二九四)。
 北日野村矢船と吉野村余田に共通する村落構造は、ともに小作地率が県や郡平均を大きく上回っており、かつ、自作農が少なく、自小作・小作農が大きな比重を占める不在地主型村落であったことである。また、武生町の近郊農村であり賃労働の機会が比較的多かったことも共通していた。このような条件を背景にして、日農加盟の小作人組合が結成され、小作料減免闘争が激しく行われた。その結果、小作料の一俵あたり四〜六升の永久減額を獲得した両小作争議は、丹南地方の小作争議のモデルともなり、地主小作関係にも大きな影響をあたえたのである。



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