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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      小作人組合の結成
 米騒動の起こった大正七年(一九一八)の小作争議件数は、前年の八五件から二五六件へと約三倍に増加した。さらに、戦後恐慌の影響が米価にも影響をあたえはじめた十年には前年の四倍増の一六八〇件となり、また翌十一年にはわが国最初の全国的農民組織である日本農民組合(以下、日農と略記)が結成され、本格的小作争議の時代を迎えることになる(図45)。この小作人が攻勢的であった大正十年代から昭和初期にかけての小作争議は、労働市場・商品市場の拡大が農村にも影響をあたえていた近畿圏を中心とした西日本におもに生起するが、福井県においても図45のように、大正十年には前年の三件からいっきょに二七件に激増した。
図45 小作争議件数(大正6〜昭和16年)

図45 小作争議件数(大正6〜昭和16年)

 この本格的小作争議といわれるものの特色は、第一に、高額小作料の減免(永久減免を含む)を求める争議の主体として、小作人組合が大きな影響力を発揮したことである。第二には、小作料の減免要求の根拠を示す詳細な小作収支計算書が、小作人組合の指導のもと広範囲に作製されたことであり、またそのような争議が連年のようにくり返され、かつ長期化したことである。
 福井県においても、日農が結成された十一年の一一組合・組合員七九四人が、十四年には二八組合・二〇七一人に、さらに日農福井県連合会が結成された翌年の昭和三年には八五組合・三四三四人にまで増加していた。同時期の地主組合数が停滞から減少傾向を示し、また協調組合数も微増にとどまるなかで小作人組合だけが激増していたのである。三年の小作人組合を区域別にみると、六三が一大字単位に結成されており、この時期においてもあくまでも共同体的色彩の強かった大字を基盤に団結がなされていた。しかし、数大字が五組合、一町村が五組合、数町村が二組合、数郡が一組合と大字をこえた小作人組合も組織されはじめており、共同体的規範をこえる新しい組織原理が小作人の間に生まれてきていたことをうかがわせる(昭和三年『小作年報』)。
 大正十三年ころから、小作人組合を結成して、日農に加盟し、その支部となる組合が出現しはじめた。杉山元治郎が武生に来たことが直接の契機であったとされているが、まず武生町平出支部と北日野村矢船支部が結成され、十五年六月には一〇支部・組合員数二一四人となり、昭和三年四月には、四三支部九三五人にまで増加していた(農林省『地主小作人組合ニ関スル調査』大正一五年七月、資11 一―二九六)。この日農加盟の小作人組合は、武生町の周辺の丹南三郡(丹生・今立・南条郡)に限られてはいたが、この時期の福井県の小作争議がこの地域に続発するうえに、主導的役割を果たしていたのである。



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