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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      粟田部村の小作争議
 大正七年(一九一八)七月から九月にかけて全国各地で続発した米騒動は、労働運動だけでなく近代農民運動にとっても大きな画期となった。第一次世界大戦を通じての国内市場の拡大は、農業の小商品的生産を発展させ、その一翼を支えた自小作・小作農は、高率小作料の収取をめぐる小作争議を続出させることになる。
 九年二月から四月にかけ、高率小作料の永久減額をめぐって争われた今立郡粟田部村の小作争議は、この時期の小作争議の特色をよく示している。この争議は、全村あげて地主(約五〇人)と小作人(約一〇〇人)が参加し、また関係耕地面積も約九七町歩と比較的規模の大きな争議であった。粟田部村は、近世以来在郷町としての性格をもち、近代に入っても商業とともに絹織物業が盛んであり、九年の「国勢調査」の「職業(大分類)」をみると、農業を本業とするものは二六一人と全体の一七・四パーセントを占めるにすぎなかった(表184)。また、粟田部村農会は、争議後十三年にようやく創設されるのであるが、同会の「大正十三年度農業改善調査」によれば農業を本業とする戸数九三のうちわけは、自作五戸・自小作一一戸・小作七七戸で、小作人が圧倒的多数を占めていた。耕作規模においても五反未満一四戸、五反〜一町未満五七戸と零細農家が大半であり、九三戸のうち八六戸では他の職業を兼ねることにより生計を維持していた。

表184 栗田部村の職業構成(大正9年)

表184 栗田部村の職業構成(大正9年)
 一方、地主五八戸のうち、四九戸は商工業を本業とするものであり、また、地主の土地所有規模も一二町八反を所有する地主が飛び抜けて大きいほうで、以下一〇〜五町が三人、五〜三町が三人、三〜一町が六人であり、残りの大半は一町未満の土地所有者であった。それとともに、他村民が全耕地の二五パーセントにあたる約二六町を所有していた。
 また、同村の小作料は、十年の「粟田部村小作慣行調査」によれば、水田の六割を占める一毛作田「普通」の小作料が五割八分であり、県平均を一割以上も上回る高率であった。これは地租改正時に決定された小作料が四〇年間にわたって改正されなかった結果であったが、そのため同村小作人の平均的耕作規模である七反からの収入は、小作料を差引くと年収わずか一七五円であった。当然のことながら、機業や商業などに副業収入を求めなければならなかったが、労働時間に対する小作収入と副業収入(九年の福井市の男子機業職工の平均日給が一円五〇銭)との大きな格差が自覚されたところから、小作人は一俵(四斗四升入)あたり平均七升五合の小作料減額を求める争議を起こすことになる。
 そして、注目すべきことは、そのような労働に対する自覚は、人格承認要求をも提起させていた。この争議に関する官側の報告を記載した農商務省「小作争議ニ関スル調査」によれば、もともと「権利義務ノ観念」の発達していた粟田部村の小作人が、この争議のなかで「茲ニ於テカ旧来ノ恩情主義的取扱ニ満足セス、地主ニ対シ対等ノ人間トシテ自己ノ権利ヲ主張」していたとしている。このような地主と小作人の対等な人間関係を要求する動きは、大正デモクラシー思潮の小作人層への広がりをうかがわせるものといえよう。
 争議経過はつぎのとおりである。九年二月、小作人大会で選ばれた一一人の小作委員が、一俵あたり平均七升五合の小作料減額要求書を村長に提出した。しかし、地主は地主大会を開きこの要求を拒否するとともに、小作地の引上げと「今立興農株式会社」創設による会社組織での耕作を決議し、これを実行に移そうとした。四月に入ると、地主側の対応は「村民全体トシテ観察スルトキハ決シテ慶スヘキコトニ非ラス」として、四人の村会議員(地主でない機業家や商業者)が仲裁に入り、同月二十日には一俵あたり四升減額で妥協が成立した。
 仲裁条件には四升減の方法とともに、「地主小作人間ノ関係ハ旧ニ復スルコト」があげられていたが、地主と小作人の関係を争議以前に戻すことはもはや不可能であった。争議後、小作人は村全体で祝賀会を開くことを主張したが、地主がこれに反対したため、大字ごとに「小祝賀会」を開いたという。地主の意向がそのままでは貫かれない状況が生まれていたのである。また、仲裁人も、小作人が「只無理暴力ヲ以テ自己ノ不当ナル要求ヲ成功セシメントスル」傾向があるので、その解決には権力者である郡長または警察署長の介入によってしか小作争議解決の「良法ナカルヘシ」と報告していた。このように、争議の影響として「以後地主ノ権威ハ多少衰ヘ、小作人ノ勢力ノ増大シタル」という状況が生まれていたのであり、小作人たちはこの争議を通じて、小作料の減額だけではなく、人格的・身分的従属関係からの脱皮をはかっていったのである(大正一一年「小作争議ニ関スル調査」農商務省)。



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