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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      米穀検査をめぐる小作争議
日露戦争以後、米穀検査や耕地整理の実施にともなう負担配分をめぐって小作争議が起こるようになる。福井県でも明治三十八年(一九〇五)に「産米取締規則」が公布され、翌年から移出米検査が、また四十五年四月からは生産米検査が県下いっせいに実施された。米質の向上と規格化を求める米市場の要請から実施された米穀検査は、乾燥や二重俵装などすべての小作人に一律の負担を強いるが、その補償を地主がどのように行うかは区々であった。そのため米穀検査の実施をめぐって、込米廃止や奨励金の支給を要求する小作争議が発生した。
 四十年の南条郡湯尾村をはじめとして、県下各地で小作争議が起こり、とくに今立郡では四十一年に「中河村を初発として其後蔓延兆候を示しつゝあり」という状況であった(『福井新聞』明41・1・17)。この争議は、一村または一大字の小作人の大半が参加して、小作地返納などの手段に訴えながら強硬に交渉し、最終的には地主側の譲歩で終息することが多かったが、その結果が隣村にも同種の争議を波及させがちであった。四十四年から大正二年(一九一三)にかけて大野郡の下庄村、富田村、猪野瀬村、荒土村、村岡村などに米穀検査をめぐる争議が次々と派生していくのはそのためであり、またそれが、前述した福井県の実収小作料を引下げていくのである(『福井新聞』明44・2・6、45・5・4、大2・3・6)。



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