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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    三 農民運動
      県下の小作慣行
 福井県の農業は水田単作地帯の典型といわれるが、農家一戸あたりの耕地面積は大正元年(一九一二)で八・一反と全国平均を下回っており、五反未満の農家戸数が全体の約四五パーセントを占めていた。福井県のなかでも越前と若狭では農業においても顕著な地域性がうかがえ、若狭は越前と比べ、より耕作規模が小さく、かつ米の平均反収も相対的に低かった。また、表182にみるとおり、小作地率において越前はほぼ全国平均であるが、若狭は二六・七パーセントとかなりの低率であり、五町規模の地主もほとんど存在せず、地主制が進展しなかったといえる。このような地域性は小作争議にもみられ、若狭では大正・昭和戦前期を通じて争議らしい争議はほとんど発生しなかった。

表182 郡市別小作地率(大正1年)

表182 郡市別小作地率(大正1年)
 すでに明治十八年(一八八五)に全国的に行われた「小作慣行調査」によっても、福井県の小作料は田一反あたり平均一石で、その取得割合は地主六分・小作人四分と報告されていた。この高率小作料が、農村において資本主義的小商品生産が展開されていくなか、地主小作関係の矛盾を顕在化させていくことになる。大正期に入ると農商務省は元年と十年の二度にわたる小作慣行調査によって、地主小作関係の実態を詳細に把握しようとした。以下、この二回の「小作慣行調査」によって福井県の地主小作関係についてみてみよう。
 小作契約締結の形式をみると、十年でも「口約束」によるものが九五・五パーセント(全国平均七一パーセント)、「小作証書」によるものが四・五パーセント(同二九パーセント)である。福井県の「口約束」の比率は、石川県(九五パーセント)とともに全国道府県のなかでもっとも高くなっている。このことは、北陸地方の農民が特別に契約観念が未発達であったというよりも、広い地域に農地を所有する大地主や不在地主が存在しなかったことによるものと考えられる(昭和二年十月十一日の『福井新聞』によれば、他町村民所有の田畑は約三九〇〇町歩で全体の六・三パーセント)。また、恩情的な地主小作関係が根強く残っていたことも推定させる。
 つぎに、表183から小作料の推移をみると、全国的な実収小作料の減少傾向がうかがえる。この傾向は福井県ではより顕著であり、直接的な比較には問題点がないわけではないが、福井県での元年の「中田」と十年の「普通」を比較した場合、七・八パーセントの減少となっている。

表183 一毛作田の反当小作料平均額

表183 一毛作田の反当小作料平均額
 小作争議が本格化しない段階で、福井県においてこのような全国平均を上回る小作料率の減少を可能にした要因としては、明治四十年代以降の全国平均をかなり上回る安定高反収や後述する米穀検査をめぐる小作人の攻勢があったと考えられる。それとともに、「輓近小作人ニシテ工業労働ニ趨ル者激増セル為メ、耕作者ノ不足ヲ告ケ、従テ剰余地ヲ生スル傾向アル」と十年の「小作慣行調査」が述べている小作地の余剰傾向が、小作料率を引下げていた。力織機化された羽二重業が農村にも広範に展開し、中小地主の機業への参入がくり返し行われるとともに、女工だけでなく男工の就労機会も増加させており、織物業に従事する男工は元年の一〇一九人が十年には三三一二人と約三倍に増加していた。また、従来は自家食糧の不足する山村や漁村で行われてきた小作料の金納化も、機業や農村副業の発達により「漸次増加」していた。
 『福井県農会史』によれば、五〇町歩以上の耕地を所有する地主は、元年の一〇人から十一年には一七人へと増加していた。しかし、一〇〜五〇町規模の地主は、四〇〇人から三三一人へ、三〜一〇町規模の地主も四四六一人から三六九一人へと減少しており、地主制の後退を示すが、基本的には福井県における地主の土地所有規模は小さかった(一〇〇町をこえる地主は坂井郡に一人のみ)。また、十年の『小作慣行調査』によれば、「支配人」「世話人」「代人」「倉元」などと呼ばれた小作地管理人も一〇八〇人と少なく、管理面積も二五〇三町歩であった。この管理人は一般的には大地主や不在地主の小作地を管理する例が多いとされているが、福井県では「商業其他農業以外ノ業ヲ営ム地主」にあたる機業家や商業者地主の小作地を管理するものも相当数いたと考えられる。したがって、このことと前述の小作契約における「口約束」の圧倒的比率とをあわせて勘案すると、福井県においては不在地主型村落は比較的少なかったと推定できる。



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