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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     二 労働問題と労働運動
      福井県労働同志会の結成
 大正十四年(一九二五)六月一日、前述した福井市の製材職工同盟会を母体にした福井県労働同志会が発足し、福井市の加賀屋座で創立大会を開いた。大会では斎木重一を会長に、吉田春吉を副会長に、幹事には福井市一一人、坂井・今立郡各二人、足羽・南条郡各一人を選出した。また、柳下彦雄(医師)、土屋四郎吉(弁護士)、清田栄治(職業紹介所長)の三人が顧問となった。続いて宣言・綱領・決議が可決されたが、「我等は久しい眠から醒めねばならぬ、我等の覚醒によつて協調一致の下に産業の発展と繁栄を期するの大覚悟がなければならぬ」と宣言がうたっているように、運動方針としては「労資協調」路線を強調していた。また、決議には「工場法第一条第一号の改正を期す」「失業救済及対策施設の完備を期す」「市の休電日変更を期す」の三つがあげられているように、穏健着実な具体的目標を掲げていた。なお、午後からは約五〇〇人の聴衆を集めて演説会が行われた。
写真147 福井県労働同志会

写真147 福井県労働同志会

 このように労働者の「人格の修練」と労資の協調が強調されたのは、来賓として協調会の添田敬一郎や県内務部長、社会教育主事などが列席し、また大会で柳下顧問によって「国民精神作興ニ関スル詔書」が読み上げられていることなどからもうかがえるように、同志会創立に関してかなりの行政指導がなされたためと推定できる。そのことは、来賓として祝辞をのべた土生彰代議士が、労働価値の至上性を訴えるなかで、添田を同志会役員が自動車で迎えにいったことを「プロレタリアの我々が僅の道を自動車に依る必要はない」と痛烈に批判したところ、大喝采を博し、「拍手は鳴りやまぬ程」であったことからもうかがえる。参会した労働者は、かならずしも大会で可決された宣言・綱領に心からの共感を覚えていなかったと思われる(資11 一―三四七)。
 それでも、翌七月一日には金津支部が発足、また、同月中に福井仲仕組合一一〇人が加盟、八月には今庄・今立支部が創設されるなど、労働者の団結の機運が急速に高まるなか、県下の労働者は労働同志会に結集しはじめた。さらに同会は、同十四年末に三国仲仕組合が三国支部を設置し、翌十五年四月には鯖江支部が設置され、同月の第二回大会のころには、「一千百十余名の会員を有する」にいたった。ようやく、福井県にも産業を横断した本格的な労働団体が生まれたのである。また、大正十五年三月には郵便物認可をうけ、機関紙『福井勤労新聞』を刊行していたが、同会が労働争議を本格的に指導しはじめるのは昭和恐慌期に入ってからであった(『大阪朝日新聞』大14・7・2、17、8・16、12・4、15・3・24)。



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