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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     二 労働問題と労働運動
      「職工の叫び」
 戦後恐慌が大正九年(一九二〇)三月の株価暴落から始まり、それが「慢性不況」の様相を呈した大正十年代には、福井県では表179のように労働争議は、九年二件、十年二件、十一年三件、十二年四件、十四年二件の計一三件が起こっている。そのなかには、雇用主側が賃下げを要求して争議となったのが三件あり、どちらかといえばこの時期の労働争議は、労働者が守勢に立たされていた。
 このような福井県の労働事情を大正十年時点で県警察部工場課は、「幸にして本県では大部分の職工が、本県人である上に約八割は女工で、しかも農家の婦女子であつて都会地のやうに純然たる工場労働者でない関係上、労働争議または失業問題を惹起しないで比較的穏であります。」と分析していた(『職工の叫び』大正一一年)。
 明治四十四年(一九一一)に公布された工場法は、ようやく第一次世界大戦期の大正五年に施行された。福井県でも八年八月には工場課が独立し、工場法適用工場への臨検体制が整えられた(第五章第二節二)。また、工場課は、前述の引用文からも明らかなように、労働者を保護するだけでなく労働争議の未然防止をも目論んでいたと思われる。
 大正十一年に県警察部工場課が発行した『職工の叫び』は、二二工場約三五〇〇人の職工に対して工場臨検の際、「一ばん楽しい事は」「一ばん苦しい事は」「一ばん望む事は」の三つのアンケートを直接に行い、約二七〇〇人からの回答をまとめたものである。アンケートは、織物業・撚糸業・製糸業・製紙業・紡績業の五つの業種の工場で、県警察部工場課の職員が職工を一堂に集めて無記名で行った。ただ、回答する職工側に無意識的に模範的回答を行おうとする傾向が若干あるように思われ、また、一工場平均職工数が一〇〇人を超える大規模工場の職工に限定されてはいるが、『職工の叫び』からは戦後恐慌期の県下労働事情をかいま見ることができる。
 まず、表181にみるように「一ばん楽しい事は」については、機が上手に織れた時、糸のよくたつ時など仕事が上手に行える時という回答が全体の二割強ある。また、もっとも素直に給料日や賞与の出ることと回答した者も多い。しかし、仕事が終わった時や終業後に楽しく遊ぶことと答えたものが二〇〇人以上いることは、職工の労働がきびしかったことを反映している。

表181 場職工へのアンケート結果

表181 場職工へのアンケート結果
 そのことに関連して「一ばん苦しい事」では、仕事がうまくいかないことという回答がもっとも多いが、長時間労働や夜業をあげたものも三〇〇人近くいた。また、男工では賃金の安いことや物価騰貴をあげたものがかなり高い比率を占めているのは、女工には独身者が圧倒的に多かったのに反して、男工の多くは妻帯者で家計収入の主柱であったからであろう。このほか、女工では二等品になったこと、罰金が徴収される時などと回答しているものも多く、仕事上のミスはそのまま給与に響いていた。
 最後の「一ばん望む事」では、増給が男工・女工とも圧倒的に多い。また、女工では給与に関連して、下拵えなどの仕事ではなく機織り工になりたいなど、仕事の配置転換や織機の新設などを望むものが多い。また、男工では就業時間の短縮を望むものが多く、女工は休憩時間の延長をのぞんでいる。また、景気の回復を上げたものが女工に多いのは、さきの大戦期の待遇が現在よりよかったことを反映している。
 工場法の適用や国際労働会議の開催があり、また米騒動や大戦後の労働争議の多発もあり、大正後期には労働時間や衛生環境などでの労働者保護が行政によって志向されていた。しかし、このアンケートにもみられるように、戦後恐慌とその後の「慢性不況」は、労働条件の改善に大きなブレーキをかけており、一〇〇人以上と県下では比較的規模の大きな工場の労働者ですら、その多くが低賃金と長時間労働の苦しさを訴えていた。



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