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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     二 労働問題と労働運動
      大戦後の労働問題
 第一次世界大戦による好景気は、福井県でも労働者の増加をもたらした。職工一〇人以上使用の「工場」数は、大正三年(一九一四)の四五二が八年には八〇一へと一・七七倍に、工場職工数にいたっては一万一七九七人が二万四五三〇人へと二・〇八倍にまで増加していた(表180)。また、この五年間で男工は、二一七一人が六〇〇二人へと約三倍に増加していたが、依然として女工の占める比率は七五・二パーセントと高率であった。このことは、八年においても織物業関係(精練・撚糸を含む)が、工場数で八七・一パーセント、職工数で八六・一パーセントを占め、とくに女工の場合は九一・七パーセントという圧倒的比率を占めていたことによる。

表180 職工10人以上使用工場数・職工数

表180 職工10人以上使用工場数・職工数
 このように大戦期は県下でも労働者が急増し、とくに物価の上昇の激しかった八年は、表179にみられるように、福井市を中心に県下で大正期を通じてもっとも多い一一件の労働争議が発生した年でもあった。空前の好景気であった織物業では争議がみられなかったが、下足・傘職工などいわゆる都市雑業層から、一〇〇人以上を使用する福井銑鉄・福井鉄工・北陸電化など県下では比較的規模の大きい金属機械や化学工場の労働者までが、賃上げを要求して同盟罷工を行った。造船や紡績などの大工場がなく、したがって大規模な争議が起こらず、また労働組合の結成もほとんどみられなかった福井県ではあったが、米騒動や八年の労働争議の頻発は、行政や雇用主の側にも労働問題への対応をせまっていた。
 このようななか、ベルサイユ条約で「国際労働機関」が設置され、大正八年に第一回国際労働会議が開かれることになった。日本輸出絹同業組合連合会は、松井文太郎を同会議に顧問として出席させることを決定するとともに、労働時間は「一日八時間を原則と認む、但し相当準備期間を設くること」、休日は「毎週一回日曜日に一定すること、但し当分第一第三日曜日となすこと」などの意見書を発表していた。留保条件はつけていたものの、八時間労働や日曜休日の原則を絹織物業者も認めざるをえなかったのである。なお、この会議には政府・使用者・労働者の各代表がそれぞれ平等な資格で審議や表決に参加することになっていた。労働者代表の選考は、まず道府県で職工数一〇〇人以上の工場の代表が集まり、全国代表を決定し彼らが集まって代表決定全国協議会が開催された。
写真146 福井県労働代表者会議

写真146 福井県労働代表者会議

 福井県でも九月九日、労働代表者会議が内務部長や警察部長などが出席するなか県農会事務所で開かれた。職工一〇〇人以上使用工場(五〇人以上工場から一六人追加)から選ばれた協議員五六人(うち織物三六・製糸六・撚糸三・精練二・製紙二・金属機械二・化学二・電力交通一・鉱山一)が、八時間労働や利益分配などについて議論をかわした。労働時間に関しては、当時の実態にほぼ近い一〇〜一一時間を適当とする意見が多かったが、そのなかで北陸電化の久保舜太郎が、私は八時間制の賛成者であります。今日は議論の時代ではなく実行の時代であると考えます。狭き工場に営々として働く吾々と自然を相手に働く農夫などと較べて時間の長短を論ずる事は出来ないと思ひます。職工の衛生上からいつても是非実行せなければなりません。と主張したのが注目された。彼の意見は、前々月の七月に北陸電化で職工三二人が賃上げを要求して行った同盟罷工を背景にしていたと思われる(表179)。このほか、福井市の安本機業工場の諏訪巌は「強固なる労働機関を組織して待遇賃金の統一」を実行したいとのべ、さらに、西野製紙の広田三郎は「工場法なるものは職工のために拵へたか企業家の為に拵へたか」と警察部長に質問したり、利益は「資本主労働者の二分すべきもの」であるとまでのべていた。
 この国際会議への労働者側日本代表の選考過程で、政府が労働団体の代表が出ることを忌避したため、「国際労働会議代表反対運動」が起こされていたが、県下の主要工場の労働者代表が一堂に会して、みずからの労働問題について論議を交わしたのは歴史上初めてのことであった。なお、この会議では選挙の結果、福井県代表に春江村の岡崎利市機業工場の寺島島松が選ばれた(『日本労働年鑑』、『教育と自治』第二巻第一〇号、『大阪朝日新聞』大8・9・4、6、8、10)。



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