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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     二 労働問題と労働運動
      第一次世界大戦期の労働争議
 大正元年(一九一二)八月に東京で鈴木文治らによって労働者の親睦と修養を目的として結成された友愛会は、しだいに労働組合としての性格を強めていき、また会員の関与するストライキも各地で続出し、七年には支部数一二〇・会員数約三万人にまで組織を拡大させていた。会の名称も八年には大日本労働総同盟友愛会と、十年には日本労働総同盟と改称し、名実ともに日本労働組合運動の基盤を築くことになる。
 福井県では友愛会支部は組織されず、また前述した笏谷石工の職工団のような組織もその後は結成されなかった。ただ、そのなかで勝山の松文機業工場では、四年十一月に「優良職工を選抜して委員と為し、企業者側委員と会同せしめ以て労資意思疎通の機関」とされた「準労働委員会」を設置していた。このことについてはこれ以上のことは明らかではないが、この時期に県下にもこのような機関が設置されていたことは注目されてよい(大正一一年『労働運動概況』)。
 第一次世界大戦中の七年一月ころ、福井県においてもようやく、福井市内の各製材所の職工六〇余人が、斎木重一を指導者に技術の向上・会員の親睦・医療扶助を目的とした同盟会を結成した。製材工という仕事の性格上負傷者が絶えなかったことが、同盟会結成の大きな理由であり、医師柳下彦雄を顧問にしていたのもそのためであった。この同盟会は、八年七月に賃金三割値上げを要求して四日間にわたって同盟罷工を行った。事業主側は、当初同盟会の決議をもっての賃上げ要求には応じられないとしていたが、最終的には三割値上げを受入れるとともに「従業員の解雇については同盟会の了解をえること」「各工場の職工は工場主に迷惑をかけない」との条件で争議は解決した(『福井県労働運動史』一)。
 しかし、第一次世界大戦期の福井県では、このような労働団体による争議はめずらしく、表179にみるように物価上昇の補填を要求する争議が市内や郡部で起こっていた。なお、この大戦期は県下の絹織物業が空前の好況を呈しており、機業女工は工場主の女工争奪もあり、完全な売手市場であった。七年八月の福井市米騒動直後の鯖江の佐々木機業場の女工の同盟罷業は、他機業家が米価急騰の救済策として臨時賞与をだしていたにもかかわらず、佐々木機業場だけがその手当をしなかったことが原因であった。

表179 県下争議一覧(大正5〜14年)

表179 県下争議一覧(大正5〜14年)



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