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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     二 労働問題と労働運動
      笏谷石工の争議
 足羽郡社村の笏谷石工の同盟罷工は、大正元年(一九一二)九月から三年三月まであしかけ三年にわたって断続的に続けられた。笏谷は建築用材を産出する採石場であり、二〇数名の山主が二〇〇人以上の石工を使用していた。山主と石工の間には賃金前貸による雇用関係が慣習的に存在しており、また、労働が苛酷なうえ労働需要も春から夏にかけて逼迫するという季節労働的要素を強くもっていた。
 そのようななか元年九月、一山主のところから一三円の前借りを踏み倒して石工が他へ転職した。このことをきっかけに、山主たちは協議し賃金前貸の廃止を決めたが、これに強く反発した石工は福井県における労働組合の嚆矢ともいうべき職工団を組織し、賃金一割増など三項目の要求を山主側につきつけた。しかし、石工側が山主側の賃金六分減額を受入れるかたちで結末を迎えたと推定され、そのことが翌二年六月に再び争議が起こる原因でもあった。
写真145 笏谷石工

写真145 笏谷石工

 六月七日早朝、職工団は、今年五月には賃金六分減額を元に戻すという昨冬の約束が守られないことを理由に、立矢の月輪寺に集結してストライキにはいった。しかし、山主側は石材市況が回復しないことを理由に五月は旧に戻すが、六月からは賃金一割減を実行すると通知した。この回答に激昂した職工団は、山主側の本部へ示威行動にでようとして警官におしとめられる一幕もあったが、社村長の調停により、六月からの賃金一分増と将来石材価格が上昇した場合それに見合う増給を行うという条件で九日には争議は終結した(『福井新聞』大2・6・9、10、『福井日報』大2・6・9)。
 ところが、翌三年三月には石材運搬工のストライキをきっかけに再び職工団は山主側と対立した。背景には前二月に山主側が「越前石材株式会社」を設立し、石材価格を一割三分値上げしていたことにあった。すなわち、職工団は前年の約束である石材価格上昇にともなう一割増給を迫ったのである。争議中、山主への暴行事件もあり双方激しく対立したが、村長の調停などもあり三月下旬には七分増給で争議は解決した。
この解決を新聞は「職工団の勝利に帰す」と報じていたが、石工たちが元年の争議時に職工団を組織して、両三年の争議において一貫して組織的行動をとっていたことは注目される。三年の争議でも「田行団長は団則に基き昨日午後一時慶蔵寺内に大集会を催し」とあるように、笏谷石工のみごとな団結が、つねに山主側の圧迫を受けながらも粘り強く、争議を持続させており、福井精練職工の争議と際立った対照をみせていた(『福井日報』大3・3・8〜30、『福井新聞』大3・3・15)。



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