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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
     二 労働問題と労働運動
      福井精練の争議
 表178は、日露戦後から第一次世界大戦までの間に県下で起こった労働争議であり、笏谷石工の争議を除けば比較的短期間に終結している。明治三十八年(一九〇五)の福井市中山機業場の争議は、前年の日露開戦による好景気が講和により一転して不景気となり、工場主が職工の賃金を引き下げたことから起こっている。「各機業者の恐惶一方ならずといふ」と報じられているところからも、この争議が突発的なものではなかったことを示している(資11 一―三〇六)。四十年十二月の竹田銅山の同盟罷工は、この年足尾銅山・夕張炭坑・別子銅山などで続発した同盟罷業や暴動の影響をうけたもので、「此の憂ふべき伝染病は遂に我坂井郡竹田銅山を襲ひ」と報じられていた(資11 一―三〇七)。
写真144 竹田鉱山鉱口

写真144 竹田鉱山鉱口


表178 県下争議一覧(明治38〜大正2年)

表178 県下争議一覧(明治38〜大正2年)
 大正初期の争議として、明治四十四年に羽二重精練業者が合併して成立した福井県精練株式会社(以下福井精練と略記)の争議と、前近代的雇用関係が色濃かった笏谷石工の連年にわたる同盟罷工をやや詳しくみてみよう(末広要和「福井における労働運動の源流(一、二)」『福井高社研紀要』七、一一)。
 福井精練は四十四年の合併時、市内に第一から第五の工場をもち、その職工数二一五人で一日の平均賃金は五〇銭であった。しかし、営業不振のため翌四十五年には第五工場が閉鎖となり、賃金も四七銭に引き下げられていた(『県統計書』)。
 合併以前、市内の各精練業者は、過当競争のなか練賃を抑え、一方では熟練職工確保のため賃金が上昇し経営難を招いていた(第五章第二節一)。この経営難の克服が合併の大きな要因であったが、合併の成立は経営者の思惑どおり職工の立場を弱め、賃金を抑制していたのである(資11 一―三一三)。ところが、この時期の物価は上昇傾向を示し、福井市の米一石の卸売価格は、明治四十四年六月の一六円八八銭が大正二年六月には二〇円へ、醤油も二一円が二六円へと騰貴していた(資17 第484表)。このような賃金抑制と物価上昇の二重苦のなか、職工の生活難は深まっていた。
 大正二年七月二日、市内第三工場(勝見)の職工が、「半夏生」(七二候の一つ、七月二日ころ)の臨時休業と称して同盟罷工に入り、他の工場にも呼び掛けたところ第二、第四工場も同調し、市内の全工場が休業状態となった。三工場の職工は代表委員一二人を選出し、彼らは賃金の一割五分増・一二時間労働・解雇手当六か月分支給・病気や肉親の葬式のための休業手当支給など八項目にわたる請願書を福井精練社長の諸新平に提出した。出張中であった諸社長は、職工ストライキの報を受け、きゅうきょ帰福し、県庁で松村内務部長と打合わせた後、重役会議として要求の全面的却下を決めた。各工場に職工が召集され、重役会議の要求拒絶の回答が示され、さらには警察の動員を背景に回答に不満なものには解雇までが提示された。福井精練職工の同盟罷工はわずか一日で全面的敗北に追い込まれたのである。
 しかし、『福井新聞』は、職工の生活難からの同盟罷工に同情的であり、社説やコラムで「同盟罷工は天下の耳目を警醒」させ、国家の政治・財政の欠陥克服が急務であることへの「天の黙示」であると訴えていた。そのなかで、福井精練では翌三年十二月に会社と職工が半分ずつ出資して基金とする共済組合が作られていた(『福井新聞』大2・7・5、『セーレン百年史』、『教育と自治』第二巻一〇号)。なお、二年七月二十日に起こった市内高宮機業場の同盟罷工も「近来本県工業界において同盟罷工熱の各方面に波及し」と報じられているように、賃下げにともなう生活難からのものであった(資11 一―三一四)。



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