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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    一 米騒動
      騒動の性格
 翌八月十四日午前四時ころに、鯖江の第三六連隊が投入されると騒動はただちに鎮圧された。十四日より二十二日にいたる間に交代駐屯した将校以下下士卒は、九八〇人に及んだとされている。また、鎮圧直後から騒動の「主魁者」と目されたものが八〇人ほど逮捕され、最終的に一一四人が取調べを受けた。そのうち六五人が検束され、有罪決定者は五四人(うち懲役二九人、罰金刑二五人)にのぼった(『県史』三 県治時代)。
 表177は、有罪確定者五四人のうち追訴者一九人を除く三五人の年齢、職業などを示している。扇動演説を行った岩崎の刑がもっとも重く懲役五年で、謀議の中心人物とされた山口・大野(暴動には不参加)も懲役三年六か月とされた。また、三五人の年齢には、一六歳から五三歳までのばらつきがあるが、平均年齢は二六・九歳であり、一六歳から二五歳までのものが一九人と全体の過半を占めていた。これらの若者のなかにも一年二か月から二年の懲役刑を受けたものが四人いた。

表177 福井市米騒動予審終結決定者

表177 福井市米騒動予審終結決定者
 さらに、表177の職業をみると、注目されるのは魚商・茶商・理髪業・染物業などの小商人や小営業者およびその子弟が一六人にものぼっていることである。そのなかには、大正十年『福井市商工人名録』によれば、本人または父親が営業税を一五円から二二円程度納めていたものが六人含まれている。また、米騒動に参加した二一歳の靴職人(双子の弟は懲役一年二か月)は後年、「私は芯の底から、今米が食われんでやろうつていう連中で無うて、やつぱし若い者がやつてくれるんなら、うららもみんないつて応援しよう」という市民の連帯感が騒動を大きくした原因ではなかったかと回顧している(『福井高社研紀要』六)。
 このことは、九十九河原での岩崎の演説が県知事の失政を批判し、襲撃対象の最初に知事官舎を上げていたことや、また実際に知事官舎や福井警察署が徹底的に破壊されたことと無関係ではなかったと思われる。またこの時期には、福井市では絹織物業の空前の好況を背景に、家屋税問題や監獄跡地利用問題などで市民大会がしばしば開催され、市民の直接的な意志表示がなされるようになっていた(第四章第一節一)。すなわち、このような広範な市民の市政や県政へのきびしい監視の目が、行政や商業会議所の米価高騰への緩慢な対応にも注がれていたのであり、それはまた米騒動の首謀者たちが、知事に対して「施政其当ヲ得サル」と糾弾する理由にもなっていたのである。
 なお、昭和三十年代に五か年をかけてまとめられた米騒動の総合的研究書である『米騒動の研究』(全五巻)では、知事官舎や警察署を襲撃した福井市の米騒動は「行動においてもっとも政治的であった」と評価されている。この騒動経過の分析からなされた評価には、このような福井市民の政治や行政への参画意識の高まりを視野に入れる必要があるといえよう。



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