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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    一 米騒動
      騒動の社会的影響
 福井市米騒動の被告人に判決が下されたのは、大正七年(一九一八)十二月十一日であった(『大阪朝日新聞』大7・12・12)。懲役刑に服するものには壮行会が催され、それぞれの服役者が裁判所に集合する時には、三〇〜五〇人の付添がつき、その彼らを取り囲むように数百人の群衆の輪ができた。その後、足羽川沿いの刑務所まで見送り、門前で万歳三唱して別れを惜しんだという。さらに、収監後も連日のように市民の釈放陳情が行われた(資11 一―三七四)。
 このような米騒動の受刑者への市民の分厚い共感は、騒動直後から県・市当局者や市内の有力者たちも気づいていたと思われる。騒動が鎮圧された十四日には市参事会が開かれ、内地米の緊急直売を決定した。当初一升三〇銭と決められた米価も有志や記者団の意見にそって、騒動時に群衆が要求した二五銭に引き下げられ、十六日より廉売が実施された。さらには、米廉売にひきずられるように清酒・家賃などの諸物価も値下げされた。また、皇室からの下賜金が呼び水となって、騒動後一週間もたたない間に市内の有力者から六万六〇〇〇余円の義捐金が市へ寄せられたが、これは前年の市税のほぼ約二分の一に相当した。
 この義捐金をもとに内外米の廉売が行われたが、同月末に三矢県内務部長は、福井市海国青年団の大会で「福井市の如き六万余の人口に対し、半数に近い二万六千余の人が内外米の廉売をうける事が出来たので、全国中にも稀なる行渡つた廉売」であると述べていた。また、米騒動の教訓として「私としては知事官舎を襲はれたり自分の方にも来襲の噂をきいたり致して自分の不徳を反省し、県の施設又は其方法につき反省も致す次第であります」とも述べていた。米騒動は県や市の行政担当者や市内の有力者に民衆の爆発力を目の当たりに体験させていたのである。さらに、三矢は「富の分配といふむづかしい問題が実際に迫ってきた」と指摘していた(『教育と自治』第一巻第二号)。
 また、福井県教育会と自治協会が共同で刊行していた『教育と自治』(編集部は県庁内)も八年一月号の論説「心寒かりし米騒擾事件」で騒動の一因が富の分配の不均衡にあったとして、選挙権の拡張や簡易食堂などの社会事業の進展の方策を研究しなければならないと訴えていた。米騒動は、国や県さらに市町村にまで社会事業の充実が行政の大きな課題であることを認識させたのである(第四章第四節二)。さらに、同論説は「下級労働者等の言論意志発表の機関として労働者会議所の如きものを公認する必要」があると述べているが、労働問題もまた行政にとってより大きな課題になりつつあった。



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