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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    一 米騒動
      福井市の米騒動
 七月に入り米価の上昇が激しくなると、県は下旬に「残存米調査」の実施を市町村に通牒、さらに八月早々には福井市の在米は一三〇〇石以上あると公表し、米への投機熱をしずめ、市民に平静を訴えようとしていた。しかし、八月に入ると県下にも不穏な状況が広まり、敦賀町では港湾業務の活況が一頓挫したこともあり、いっきょに米価高騰への不満が高まり、救済策を求める市民大会の開催が報じられていた。また、不正を行った米穀商が警察に召喚される事件がしばしば新聞に掲載されるなか、福井市でも米価急騰対策として、市当局による外米の直接販売がようやく騒動直前の十日過ぎにその計画が具体化していた(『大阪朝日新聞』大7・7・24、8・3、7、9)。
写真143 福井市の米騒動

写真143 福井市の米騒動

 このようななかで、大正七年(一九一八)八月十三日夜から翌十四日未明にかけての福井市の米騒動が引き起こされるのである(末広要和「一九一八年福井県米穀=米価問題の諸断面」『福井県史研究』三、同「福井米騒動の地域改革」『歴史評論』四五九)。
 福井市の青物商大野金松(三七歳)の店先はラムネやミカン水も売っており、若者の溜まり場でもあった。大野は、店に集まる若者に「浜の女でさえも米が高いと言ってあばれこんだんじゃ」、喧嘩ばかりしていないでそういうことで「度胸」をみせたらどうかと扇動していた(資11 一―三七四)。そのため彼らは、米価引き下げの嘆願書を帝国青年団幹事であった山口庸三(三二歳)に書いてもらって知事に提出し、また、市民大会の開催を計画していた。
 福井商業会議所が七月十四日より九十九橋から幸橋までの間に納涼電灯を点灯し、九十九河原は芝居小屋や夜店が出て毎夜納涼客でにぎわっていた(『大阪朝日新聞』大7・7・16)。若者たちはこのにぎわいを市民大会に転じて、さらに大衆行動により知事への嘆願を行おうとしたのである。前日の八月十二日には名古屋・大阪・神戸などで暴動が起こっており、隣県の金沢市でも数千の大衆が米商に一升二五銭の廉売を強要していた(『石川県社会運動史』)。これら他府県の動向も耳に入っていたであろう若者たちが、福井市でも十三日の夜に行動を起こした。
 同日午後八時ころ、のちに主犯格とされた山口庸三、大野金松、岩崎与三郎のほか、二〇歳前後の若者十数人が九十九河原に集合した。岩崎が数百人の群衆に対して「近時米価暴騰スルハ、一ニ我カ福井県知事ノ施政其当ヲ得サル為メナレハ、今ヨリ諸君ト共ニ其調節ヲ知事ニ強要スルノ必要アリ」と演説を始めたが、納涼の群衆は関心を示さなかった。そこで若者たち五、六人が近くの善福寺の鐘を乱打すると近所の人びとや芝居小屋の客が火事だと思い外へ飛出して群衆が膨れ上がったところで、岩崎が「各地ニテハ米騒動ヲ為シ居ルニ、独リ当市ニ於テノミ之ヲ為サヽルハ意気地ナキニアラスヤ、今ヨリ知事官舎及ヒ市内米穀商其他ヲ襲撃スヘシ」と再度扇動演説を行い、そこへ若者が追討ちをかけるように幸橋の松浦米商店が火事だと叫ぶと、群衆はどっと幸橋を渡り始めた。
 橋詰めで警官が先頭の二、三人を派出所へ拉致すると、群衆は激昂し同所をひっくり返し、その勢いで幸橋北詰周辺の松浦・中村・中島・宮下などの米穀商を襲撃した。さらに二手に分かれ、一隊は福井駅近くの米穀商などを、もう一隊は福井警察署や知事官舎などを襲った。ここに福井市の米騒動は全市に広がり、翌日未明まで市内は大混乱をきたし、官公署・米穀商・富豪など三九か所が襲撃された(資11 一―三七三、三七四、『県史』三 県治時代、『福井日報』大7・8・15)。



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