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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第二節 民衆運動のたかまり
    一 米騒動
      米価の高騰
 大正七年(一九一八)七月から九月にかけて、米騒動が全国的規模で起こった。この約五〇日間に四三道府県の三八市・一五三町・一七七村で示威または暴動が発生し、その鎮圧のため警察だけではなくのべ一〇万人の軍隊が出動した。騒動は、七月中旬、富山県下の漁村主婦が米の県外移出を阻止しようとしたところから同県下に不穏な状況が広まり、八月三日の同県西水橋町の「女房一揆」が全国的に報道されるといっきょに全国に拡大した。とくに、八月十一日から十六日の六日間は、東京・大阪・京都・名古屋・神戸をはじめとする大都市や地方都市などで起こった騒動件数が総件数の六割五分にものぼり、騒動の頂点となった。福井市でも八月十三日に米騒動が起こっている。
 この年の米騒動は、前年のロシア革命やアジア地域での民族独立運動など一連の民衆運動の「世界史的環境」のなかで発生をみたといわれ、また国内的にはそれ以前のような凶作にもとづくものではなく、急速に発展した資本主義の矛盾の所産であった。すなわち、都市人口の急速な増加に米の増産体制が追いつかなかったところへ、シベリア出兵の決定が投機的買占めや売惜しみによる米の激しい騰貴をもたらした(表176)。
 第一次世界大戦期の急速な経済成長は、それにほぼ雁行する物価上昇をともなってはいたが、都市雑業層や労働者の生活水準をも引き上げていた。福井県においても七年七月上旬の新聞には「贅沢な機織工女外米の 

表176 石あたり米価(大正6年7月〜7年12月)

表176 石あたり米価(大正6年7月〜7年12月)
売れぬも道理」などという小見出しにより、福井市内の女工は収入が月に三〇円以上となり、工場へ絽のコートをまとって出勤し、一方、工場主は女工引止めにきゅうきゅうとしているというたぐいの報道が目立つようになっていた。とくに、福井市の場合、五月に四五〇戸の住宅が焼失する大火があり、「一般労働者も大火後の建築やら諸種の事業のために手不足」で一日の賃金が二円以上となり、外米への需要はほとんど起こらなかったのである。敦賀でも「好景気の敦賀労働者 日稼の妻が金指輪」などと報じられていた。ただ、こうした活況がすべての労働者を潤したわけではなく、また下級の給与生活者が物価上昇からうけた打撃は大きく、社会のひずみは徐々に深まっていた(『大阪朝日新聞』大7・7・1、5、8・7)。
 県下の米価は前年秋より六月まで上昇してはいたが、それほど急激なものではなかった。それが、六月末に白米一升が三三銭になり、八月四日には三九銭に、さらに十日すぎには五〇銭をうかがうまでに急上昇したのである(『大阪朝日新聞』大7・7・1、8・5、14)。福井県でも農商務省からの通達をうけて、五月十日以降、外米販売を促進する通牒が次々と郡市長あてに出されるが、前述のような外米の不評もあり、組織的な販売は八月の米騒動直前まで実施されなかった(「細川資料」)。



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