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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      不況下に都会と俸給生活者への憧憬
 不況は大正も終末に近づいて一段と深刻な様相をみせる。県絹織物組合の大正十三年(一九二四)末の調査によると一月以来の開業三一戸に対して廃業は九〇戸に達し、六か月以上にわたる休業で廃業と認められ組合を除名された者、四四戸で機業戸数は昨年より一〇三戸の減少となった。十年との比較では五一八戸という機業戸数の大幅な減少である。操業中の織機の稼働率も悪化して総機台数二万六一一〇台のところ、四四八三台が運転を休止している。したがって職工数も好況であった八年当時と比べ七六八二人の減の一万四五〇三人となった。しかも好況時には職工一人で織機二台から三台の受持ちが普通であったが、一人一台というきびしい生産抑制を執らざるをえない。これは機業家が、やがて訪れるであろう好況に備えての採算を度外視した苦しい選択であった(『大阪朝日新聞』大13・12・26)。
 機業地の不況にもまして農村では都市へのとめどのない人口流出にあえいでいた。大都市を中心に重化学工業化は不況にもかかわらず着実に進展して労働市場を掘りおこし、農村から大都市への人口移動の奔流が始まっていたのである。県下の学齢児童数は十三年、前年比で一四二九人の減少となった。十年を絶頂に毎年二〇〇人から千数百人の規模で減少を続けているが、これは若年夫婦とその家族の移住のゆえとみられている。十四年の国勢調査では県人口は、九年の調査と比べ一五六二人の減少であった。全国で減少したのは福井県と沖縄県の二県だけであった。この間、植民地を含まない内地人口だけで三七〇万人余の巨大な人口増加であっただけにショックは大きく県会でも適切な対応策が求められていた。同時期に三〇〇〇余人の人口増加を記録した福井市でさえ、十五年五月に実施された徴兵検査では、受検壮丁の六割が中央都市の出稼者であったと連隊区司令官は報告している。重化学工業化と都市化は疏菜と果物という商業的農業を発展させたが、米の単作地帯に属する福井県農業は、不況による米価の低迷に苦しみ、しだいに激化する小作争議によって地主・小作ともに疲弊の極にあった。県庁の調査では大正三年以来、十二年までの十年間に農家戸数は、年平均で三四九戸ずつ減り続けてきている。農業や農村を捨てての転住と転職は小農から地主にまで共通した動きとなっている。中等以上の教育をうけた者は、土臭い田舎を顧みず都会とサラリーマン生活に憧憬をもって農村をあとにする。この動きは中等教育への志望増大とも連動していたとみられている(大正一四年『通常福井県会会議録』、『福井新聞』大14・2・14、15・1・24、5・26、『大阪朝日新聞』大15・4・29)。 

表173 中等学校の入学率(大正2〜昭和1年)
表173 中等学校の入学率(大正2〜昭和1年)
 そして県は、この世論に押されて緊縮予算のなかで県立学校の学級増設や新設につとめ、郡立学校や町立学校の県立への移管をすすめる。三国中学校、大野高等女学校、武生高等女学校、小浜高等女学校、三国高等女学校、遠敷農林学校、坂井農学校、今立農学校、まことに多くの県立学校が、この時期に成立する。時代の社会的潮流とはいえ、直接に教育への要求を推進したのは、表174のように市街地と農村の中間層であった。わけても公務・自由業という新中間層の突出ぶりが目をひくところである。そして都市中間層は、労働者や小作農民とともに大正デモクラシーを担った階層であったのである(『大阪朝日新聞』大11・8・9、12・2・3、10・23、13・3・16、6・27、『教育と自治』第二巻第一号、第七巻第一・二号、第九巻第二・三号、大正九〜一三・一五年『通常福井県会会議録』)。

表174 師範学校・中学校・高等女学校入学者父兄の職業別
表174 師範学校・中学校・高等女学校入学者父兄の職業別
 新中間層つまり俸給生活者あるいはサラリーマンが社会的勢力として現れてくる傾向は、福井県においても日露戦後にみられたのであった。図43のグラフがこれを端的に示している。福井県が「羽二重王国」というのは虚像にすぎない、ということは当時から一般に指摘されていたが(大橋松二郎『中清童観録』)、この職業別の所得の推移は日露戦後の福井県は、地主・農民を中心とした「農業県」であったことを示している。そして俸給生活者が羽二重機業家群の「工業」の所得を抑えて「商業」所得にせまっている。大正後半の不況期の個人所得の動向を図44でみると地主・農民の所得の急落と機業家の低迷が判明する。これに反して俸給生活者と商人の着実な所得の伸びが注目される。さきの表174でみた公務・自由業の中等学校への突出した入学者率の高さを所得の面から裏づけている。この経済的に台頭のいちじるしい新中間層の都市部での存在形態を確認しようとした表175は大正九年の第一回国勢調査時点のものである。公務自由業が中軸であるが、全体としての二九四七人の職員層が俸給生活者であり、有業人口の一一・四パーセントとなり、かなりの社会的勢力であった。公務・自由業の労務者を含め労働諸階層が一万三〇九七人の大勢力をなしている。ちなみに十三年十月、福井市役所が市内の俸給生活者の月給の調査をしている。官公署一六、中等学校七、小学校九、銀行・会社二二、工場一〇の計六四箇所の俸給生活者、二五七九人が調査対象であった。九年の調査の職員の総数よりもかなり少ないのは当然で調査漏れがあるのはやむをえない。その月給を階層別に分けると四〇円未満が一三〇七人でもっとも多く五〇パーセントに達する。六〇円未満で数えると一九二七人となり全体の四分の三を占める。最高は二五〇円以上で一〇人となっている(『福井新聞』大13・10・30)。
図43 第3種所得税種類別所得決定額(明治37〜大正1年)
図43 第3種所得税種類別所得決定額(明治37〜大正1年)


図44 第3種所得税種類別所得決定額(大正3〜14年)
図44 第3種所得税種類別所得決定額(大正3〜14年)



表175 福井市の職業別階層別人口(大正9年)
表175 福井市の職業別階層別人口(大正9年)



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