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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      市長と県社会課の物価引下策
 大正九年(一九二〇)一月二十七日、福井市会に公設市場の設置が提案された。大蔵省預金部と簡易保険の低利資金の融資をうけて公設市場を市が経営して低料金で店舗を商人に貸与して廉価販売を実施させる。物価高に苦しむ市民を救済しようという構想であった。しかし市会は決議を延期した。当時まだ好景気で女工成金をうたわれた労働階級は、労働時間をさいて公設市場まで買物には来ぬであろう。中流以上の市民は体面から足を運びにくいし結局、市場周辺のごく一部市民の利用にとどまると想定されたのである。この事態を一変させたのは三月以来の反動恐慌の襲来であった。十一月二十日の福井市会は公設市場四か所の設置をきめ、まず日ノ出下町に開設する。十二月二十二日、公設市場開場の日、雨天であったが多数の市民が押しかけ、魚屋、肉屋、青物屋、菓子屋から砂糖屋、米屋、醤油屋にいたるまで「何でも安く、何でもあるのが便利」と評判上々の出発となった(『大阪朝日新聞』大9・1・10、27、29、11・24、26、12・23)。
写真142 日ノ出公設市場の広告

写真142 日ノ出公設市場の広告

 その後、福井市の公設市場は十年十月に神明市場、十一年四月には木田市場、立矢市場、と四市場が出揃った。とくに十一年になって日用品の値上がりが市街地の県民生活を圧迫するに及んで十一年九月に武生市場、十二月には敦賀市場、福井市にも宝永市場が開設され、翌十二年二月に勝山市場と続くのである。この公設市場ラッシュにあたる時期に果敢に物価引下げに挑戦したのが陸軍中将の福井市長武内徹であった。市民的人気の高かったこの市長は、就任して間もなく、赤十字社市幹事長、県尚武会市支部長、市教育会長、市青年会長、など慣行によって市長がつとめてきた役職をすべて辞退し市長の仕事に専念した(資11 一―九三、『大阪朝日新聞』大10・6・10、17、7・15)。 
 市長の物価引下げ策の第一弾は火災保険料にむけられた。福井市の大火の多発は有名で、そのため貸家が払底して家賃も高かった。火災地なるがゆえに火災保険料も各社が協定し一〇〇〇円に対して二〇円という設定であった。市長は、これを不当とし市の管理する庁舎、市立学校、公設市場、その他の火災保険はすべて協定各社以外の保険会社と契約を結び従来の協定を破棄したのである。市長また吏員を督励して各地の物価調査にあたらせる。その結果、青物のごときは名古屋の四倍の高値であるとして、営業団体の反対を覚悟で名古屋商人を公設市場に開店させて競争させ物価引下げをはかり一般市民の利益をまもるという。この市長の物価引下げ策を強力にサポートしたのが県社会課であった。福井市には四公設市場があって廉価販売にあたっていたが、同時に県農会の青物市を月三回開設して物価引下げ策を強化したのである。県農会の監督のもと、郡部の生産者が直接に市にでて販売するので安さが評判になって朝八時頃には売切れという盛況となった。物価引下げを推進する県としては、この有効な農会青物市を月一〇回、三日おきに開く交渉中で近く実現のはこびという。また農会青物市を公設市場内で開くか、常設の市として適当な場所に独立させ生産者直接販売とするかの調査に着手した。各地の公設市場もかなりの成績で、指定商人たらんとする競争もあるほどとなった。県では内密に公設市場の仕入値や販売価格を調査をして市役所を通じて改善の方法をとり、現実に指定商人を取り消された者もある。県の公設市場への取締りはきびしく県下の標準相場を示す方針で各地小売相場を調査公表することを八月二十八、九日の郡市長会で決定している(『大阪朝日新聞』大11・8・18、30、9・1)。



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