目次へ 前ページへ 次ページへ


 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      年頭のビジョンを痛打する反動恐慌
 大正九年(一九二〇)の年頭にあたって、県下の産業界も県や市の当局も、あふれんばかりの自信に満ちた新年のビジョンを描いてみせた。県や市および、産業界に共通する期待の第一は、高等工業学校の福井市設置が確定したことであった。第二に前知事が推進してきた本格的な大病院として赤十字病院が福井市に着工される。第三に福井市は、高等工業学校と赤十字病院建設に寄付支援で積極的役割をはたしたが、新たに浄水道の大工事を推進する。第四に、以上の大プロジェクトを根底で支えている好況下の産業界では、吉田郡森田村に建設される大阪資本後援の二〇〇〇万円規模の織物会社を筆頭に、坂井郡春江村、今立郡鯖江町、足羽郡東郷村(福井市)などに大工場の設立計画が目白押しに並ぶことになった(『大阪朝日新聞』大9・1・7、20、21、24、27、2・1、3、10)。
写真139 福井市上水道水源地

写真139 福井市上水道水源地

 福井県の工業は、絹織物機業で全国に覇をとなえていたが、大正三年時点でみれば一機業場あたり平均職工数五人、織機は力織機四台と手織機二台で計六台という、いわば力織機を擁する零細機業場の集合体であった。職工一〇〇人以上の比較的大工場は県下で一三工場、その職工数も一六一九人で、全絹織物機業場職工の一一パーセント弱にすぎない。それが大戦景気で仏蘭西縮緬と絹紬など好採算織物の出現で羽二重も含めて業界は飛躍的大発展をとげた。その結果、大正八年においては、一機業場あたりの平均職工数は八人となり、力織機九台と手織機一台の計一〇台の織機をもつまでに成長した。職工一〇〇人以上の大工場も三六工場となり、職工数も五九九二人に膨張して全絹織物機業場職工の二二パーセントが大工場に集中する。絹織物機業は大工場志向を強めることになった。
 ところが三月、この動きに痛打をあびせる反動恐慌が発生した。生糸羽二重の市況は連日とめどなく崩落をかさね福井市場は全くの恐怖感に飲みこまれる。生糸一〇貫立の一月最高値二八〇〇円は、暴落につぐ暴落で五月末にはその三分の一に惨落する。羽二重相場も一月二十日の最高三六五〇円が五月には一〇七〇円になり市況は超閑散となった。三月十五日、春江村では機業家が協議して夜業を中止し織賃引下げの検討にはいった。鯖江町では機業は休業中であり、福井市でも夜業中止を申し合せたがこの程度の措置では追付かず早々に休業に追いこまれる。四月になると情勢はさらに急をつげる。武生町では二尺四寸もの一疋の最高織賃二円二〇銭が一円になった。福井市西側方面の機業家一一〇人は、四月一日から二尺四寸もの一疋の織賃を一円六〇銭から一円二〇銭に引下げ他の織賃や下拵賃も二割減とし、四月十五日から同盟休機に入る。各地とも職工の力織機を一人二台持ちから一台に減じた。夜業中止、同盟休機、賃金引下げ、織機一台持ちなどによって職工の収入は好況時の三分の一となった。四月中旬の織物生産高は三月中の三分の一に激減して機業家は好景気で蓄えた利益の七割は吐出したといわれる。銀行は警戒を強めて貸出に急ブレーキをかけたから金融途絶に陥り、少なからぬ機業家は破綻を余儀なくされる。五月十五日現在の県絹織物組合の調査報告によれば、羽二重類の力織機の運転歩合は五割、その他の縮緬や絹紬および内地向織物などは運転歩合一割となり、手織機や足踏機は操業を全休した。県下の機業家のこうむった打撃は二〇〇〇万円を下らないという(鯖江撚糸織物株式会社「第五期営業報告書」、『大阪朝日新聞』大9・3・17、4・14、21、5・21)。
 急転直下の恐慌によって打撃は産業界にとどまらなかった。県や市が打ちだした華やかな新計画も強烈な横波をあび横転する。与党政友会の積極政策のもと、大正七年十二月「高等教育機関拡充計画」によって大正八年以降、六か年で合計二九校の官立高等教育機関が新設される(伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『日本近現代史』三)。福井市に設置がきまった高等工業学校はその一環であった。設置費用総額一一〇万円のうち学校敷地および設備費など半額の五五万円が地元寄付金となっていた。景気が絶好調であった九年一月十九日、県織物組合では組合費をもって五万円、組合員が一〇万円の合計一五万円の寄付をきめていた。福井市会は翌二十日、一万五〇〇〇坪の敷地買収費を含めて三〇万円の寄付金が検討され残りの一〇万円は県費負担ということで合計五五万円の地元負担はきわめて容易なようにみられていた。
 しかし深淵に沈むような不況のため、福井市は高等工業学校の寄付金募集のめどさえが立たなくなった。当座の九年度支出額の財源捻出に苦慮して、市有地四〇〇〇坪を売却して財源にあて、なお不足分は市税として賦課徴収する案が浮んだが、市有地売却も目算も立たなかった(『大阪朝日新聞』大9・6・24、7・1)。同じような寄付財源に依存する赤十字病院建設もデッドロックに乗りあげる。県庁は、発生した一三万円の建築不足金について赤十字本社に借入の交渉をしたが成功せず、再度の寄付も求められず現在の予定敷地を安価な他の敷地と交換する方策を模索する次第となった(大正九年『通常福井県会会議録』)。福井市の浄水道事業は総工費二七二万余円、うち国費五二万円、県費三九万円の補助をうけ主要財源を水道公債に依存する計画であった。しかし三月以来、羽二重不況の結果、市会の決議を経ている低利公債の発行さえ困難となった。そこで工事実施段階に入っても事業規模を縮小し経費節減をはかり、政府低利資金の融通をうける応急策を求めることになった(『大阪朝日新聞』大9・2・20、21、9・3)。こうして輝く年頭のビジョンも反動恐慌によってまったく光彩を喪失したのであった。



目次へ 前ページへ 次ページへ