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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      逆風に抗して昭和への活路を拓く
 ここでは視野を広げて、長い不況と闘いながら昭和の産業への地平を拓いてきた先人の営みを追うことにしたい。大正九年(一九二〇)にはじまる反動恐慌は、政府の救済諸施策にもかかわらず慢性化して昭和恐慌へと連続していく。とくに福井県がこうむった打撃は深刻であった。県下の産業中枢を担ってきた絹織物機業の崩落的な長期にわたる不振は、反動恐慌とともに世界貿易における構造変化に根ざしていた。絹織物が織物輸出において首位の座を綿織物に譲ったのは大正初頭である。以後、大正中期の好況の一時期を除き絹織物輸出の低落は一貫した傾向となった。とくに反動恐慌を契機とする絹織物輸出の低落の激しさは、実は生糸輸出の絶好調と表裏一体のあざやかな対照を示しアメリカ絹工業の隆盛を反映するものであった。したがって県下の輸出向絹織物の低迷の要因には二つあり、一つは主要輸出国であったアメリカとイギリスの二国が国内絹織物業を保護するため関税率を高めたこと。さらに二つ目には欧米における新たな人絹の登場があって絹織物の衰運に拍車をかけつつあったのである。輸出向絹織物において羽二重が九〇パーセントを占めた時期は大正のはじめで終わり、十年には五〇パーセントを割り、十五年には三〇パーセントを切るにいたった。中国産柞蚕糸を原料とする絹紬、絹紡糸による富士絹などの格安な絹織物の急激な台頭があり、つづいて絹綿交織の人気化と縮緬の復活もみられるなど、大正後半は輸出向絹織物は品種多様化の時期となった。県内機業は大量の力織機を擁して自在に好調な織物に織機を転用して不況期をたくましく乗り切ってゆく。内地向織物から輸出向綿織物まで製織種類をひろげて技術を蓄積して、やがて人絹織物という昭和初期のヒロインを誕生させる(資12上 六四、福井県絹織物同業組合『三十五年史』、同『五十年史』)。
 つぎに、大戦景気がつくりあげ、不況期を通じて維持され昭和初期への展望を切りひらく産業基盤に注目しよう。表172は、大正期の福井県産業を電動機と電力の用途別使用高から概観したものである。染織工業の歴然とした落込みをみる一方で、全体として不況下の昭和元年の電動機と電力の使用高が、八年の景気絶頂期と比べ上回っているのである。また従来、県内になかった機械工業と化学工業などの新興分野の台頭に眼をみはる。大戦中にドイツやイギリスなどからの輸入が途絶した各種機械・薬品・染料・化学肥料などの国産化の動きが活発になり、いわゆる重化学工業化が進展するが、表172は、そのささやかな県内版を投影している。
 県内の機械器具工業の動向をみよう。大正七年六月創業の福井銑鉄株式会社は、銑鉄再製と機械器具の要部の製造を営業の主柱として発足した。八年七月には織機木部製作用原動機を設置して力織機製作に参入する体勢をかためる。翌九年四月、日ノ出式綜絖釣装置と日ノ出式自動捲取装置の特許をとり、五月には福井市で開催された福井県生産品および全国特産品美術博覧会に日ノ出式力織機を出品して名誉金賞牌を授与される。さらに同年十一月、東京大学工学部冶金科助教授に技術顧問を嘱託して積極的に技術開発につとめている(福井銑鉄株式会社「第二〜六回営業報告書」、『大阪朝日新聞』大9・1・27)。当時の福井市には、さきの福井銑鉄会社の仕上工場が一時期、間借りしていた福岡鉄工場や富永鉄工場など力織機製作の鉄工場があった。また力織機用木管、織物用杼、杼用金具、針金綜絖、糸綜絖、金筬、管巻機、など多彩な織機部品の作業場が散見される。また丸岡町にも力織機製作の丸岡鉄工場があり、吉田郡松岡村にも織機やその用具をつくる二つの作業場があった(『県統計書』)。これらの織機関係の工場・作業場群は、県下機業界が遭遇した最大の逆風にも耐えて、大正十五年に力織機製造所一四を含め九〇の製造所と二二八人の職工をなお擁していたのである。そこで蓄積された技術は確実に昭和へと引き継がれ、昭和初期の人絹機業の旺盛な展開を準備したのである。大正十年、力織機は二万七〇〇〇余台でピークをつけて以後、減少に転じて十三年一万九〇〇〇余台に落ち込む。それからは人絹織の発展とともに増勢をたどり、昭和四年(一九二九)に三万台を超え十一年にはついに八万台にのせる。福井県は人絹織物によって全国にさきがけて昭和恐慌からの脱出に成功するが、その背後にあって、八万台におよぶ雲霞のような力織機の保守修繕のための部品群の整備を担当し、富永鉄工場のような県外の力織機に劣らぬ力織機を提供する工場が存在しえたことは評価されねばなるまい(前掲『五十年史』)。
 大戦でヨーロッパからの化学製品の輸入が止まると、政府はただちに大正四年六月、染料医薬品製造奨励法を公布し、化学工業の育成に乗り出す。翌五年、敦賀町と小浜町にマッチの原料となる塩素酸加里を製造する二つの会社が創業する。敦賀工業株式会社と若狭化学工業株式会社である。輸出品でもあったマッチの原料の塩素酸加里は、開戦時の三年では国内生産皆無であった。それが輸入激減を契機に価格が暴騰して四七の製造会社が発生し、八年には生産の半ばが輸出されるにいたった。敦賀と小浜に化学会社が創業する背景である(『県統計書』)。「電気の世紀」の二〇世紀になって「化学の世紀」が到来すると称される時、それは低廉な電力による電気熔融と電気分解による本格的化学工業の成立を意味する。その本格的化学工業が六年八月、福井県にも成立する。武生町に創設された北陸電化株式会社の工場である。同社は大野郡五箇村西勝原(大野市)に発電所を建設して電力を各地へ供給する一方、その膨大な余剰電力を武生工場へ送電し、付近に産出する石灰石を原料とし炭素材と熔融させてカーバイドを製造し、さら最終製品として石灰窒素と硫安を精製する。この会社は日本水力会社、大同水力会社への合併を経、十年十一月武生工場が大同水力から分離して資本金三〇〇万円の大同肥料株式会社として再出発するが、その間、反動恐慌の挫折も経験する(『山本条太郎伝記』、『大阪朝日新聞』大9・6・11、7・3)。同社は冬季の渇水による電力不足に苦しみ、輸入硫安とのきびしい価格競争を強いられたが、自社用電力設備を保持して、不況を乗りきってゆく(大同肥料株式会社「第一〜十回営業報告書」)。
写真140 北陸電化株式会社

写真140 北陸電化株式会社

 北陸電化会社の西勝原発電所工事は出力七二〇〇キロワットという大工事であった。ちなみに中尾・小和清水の発電所は出力八〇〇キロワットと一五〇〇キロワットにすぎなかった。この工事を請負った飛島文吉は、京都電灯や越前電気の下で県内水力発電工事を請負い羽二重機業動力化をささえてきた福井県産業史の象徴的な業者であった。しかし全国的には無名で大倉組を通じて提出した飛島組の西勝原の工事見積四一万五〇〇〇円が他社の三八万円の見積を抑えて山本条太郎社長の採択するところとなった。飛島組はこの工事の成功を跳躍台として水力発電と鉄道敷設の一大ブームにのって全国各地の工事をてがけ躍進をとげるが、その傘下で辛酸をなめ技術を蓄積して後に大をなす熊谷三太郎や前田又兵衛の姿もそのなかにあったのである(『飛島建設株式会社社史』上、『熊谷組社史』、『山本条太郎翁追憶録』)。また明治三十八年(一九〇五)、文殊山麓の足羽郡麻生津村生野(福井市)の一農家で呱々の声をあげた眼鏡製造業は、大正八年には工場数二四、職工一二〇人、年産八四〇〇ダース、価額では一三万円の地場産業として着実に成長をとげていた。すでに眼鏡メッキの技術をもち、きびしい不況下にあってもレンズ研磨技術の向上につとめ、親方小方の技術伝承方式を維持しながら、昭和のセルロイド枠のいわゆる「セル眼鏡」への展望を見つめつつあったのである(大坪指方『福井県眼鏡史』、上坂武治『めがね30年の歩み』)。



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