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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      青年党の綱領・文化活動・請願書
 大正十年(一九二一)になると立憲青年党の党勢は燎原の火のごとく県下に燃えひろがる。すでに大正四年には活動を展開していた勝山立憲青年党、新発足した福井と森田の青年党のほか武生立憲青年党、大野立憲青年連合会、敦賀立憲青年党、丹生郡吉野立憲青年団が、あいついで結党式をあげたり政談演説会を開いて民衆に普通選挙や地方政治の刷新を訴える。堰を切ったようなはげしい勢いであった(『福井新聞』大4・6・30、『大阪朝日新聞』大10・1・14、28、3・20、5・19、8・13)。つぎに福井立憲青年党の綱領をみよう(『大阪朝日新聞』大9・8・21)。
  一、政治思想の普及を図り健全なる文化の啓発に努め常に輿論の先駆者たるべし
  一、政界の革新を期し憲政有終の美を済すべし
  一、選挙権を拡張し立憲政治の実を挙げんことを期すべし
  一、自治改善を図り大福井の建設に努むべし
 綱領は吉野作造の民本主義の思想に基いている。綱領が判明する森田立憲青年党も敦賀立憲青年党も、字句の用法こそ若干違うが大筋では福井党の綱領と並ぶものであった(『大阪朝日新聞』大9・6・15、10・5・18)。青年党は政治的には憲政会の強い影響下にあった。福井と敦賀の立憲青年党は結党式にあたり石川県憲政会代議士の永井柳太郎を招いている。武生立憲青年党の結党式には憲政会の土生彰が祝辞をのべ、のちの党主催の演説会に永井代議士を招いている。大野立憲青年党の顧問は当時、無所属の猪野毛利栄であるが、政談演説会には金沢立憲青年党の幹事が参加している。憲政会の政談演説会には積極的に参加し憲政会の別働隊とみられていたのである(『大阪朝日新聞』大9・9・10、10・1・14、3・21、25、5・19、11・16)。
 福井立憲青年党の綱領でやや異色な点は「文化の啓発に努め輿論の先駆者たるべし」というところにある。同党は十年一月、県内の遺跡を調査してすでに顧問の大類伸博士の校閲もうけ印刷する予定であるとその内容を報告している(『大阪朝日新聞』大10・1・28)。
  国分寺及総社遺跡、古瓦及礎石、越知山遺跡、平泉寺遺跡、石徹白及豊原遺跡、経
  塚、燧城址、波多野館址と永平寺、金ケ崎城址、杣山城址、三国□址、府中城址と竜
  門寺城址、鞍谷御所址及付近の城址、武生氏城址、国吉城址、大野町付近の城址、
  村岡山城址、福井城址、小浜城址、霞城と丸岡藩砲台址。
 敦賀から若狭へ、そして奥越への踏査とすると、彼らの文化的エネルギーの旺溢するものさえ感じる。党員の多くは機業をはじめ商工業に従事する多忙な小営業者であったのである(大正一〇年『福井市商工人名録』)。
 同年二月、福井立憲青年党員と福井新聞の土生彰との連名で衆議院議員選挙法を朝鮮に施行するよう請願書を衆議院と貴族院に提出する(資11 一―七)。請願の理由について論述した内容は、日清戦争と日露戦争、日韓併合条約など今日の眼からみれば時代の偏見と制約はぬぐいがたいところであった。しかし軍部の朝鮮支配を批判し、三・一事件以後の日本の文化政策についても、これを「枝葉末節」の改革に過ぎないとして朝鮮人に参政権の付与を訴えている。土生彰の軍備全廃の平和論(資11 一―九)とともに大正デモクラシーの到達点をしめしている。しかしその限界も明らかであった。



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