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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
     二 第一次世界大戦後の社会
      立憲青年党は県下に風雲を呼ぶか
 世界史の巨大なうねりが、ある歴史の方向を指し示す時、おどろくべき衝撃波を発して、それが全地球を貫通する。日本だけの例外、福井県だけの例外はありえない。ロシア革命とウィルソン大統領の一四か条原則、朝鮮の三・一運動、中国の五・四運動。これらの世界史的事件は大正という時代の後半を彩る言葉の数々を誕生させる。「デモクラシー」「自由」「民衆」「解放」「改造」「普選」「軍縮」これらの言葉が、どれだけ人びとの心をつき動かし行動に駆りたてたであろうか。
 大正九年(一九二〇)四月三日、福井市の加賀屋座に二〇〇〇人の聴衆が押しかけて、普通選挙促進大演説会が開催された。大阪朝日新聞福井通信部主催で、京都大学法学部の二人の教授が講師団の中心であった。そこで、末広重雄教授は「国難迫る」と題して演説する(『大阪朝日新聞』大9・4・4)。支那に排日起り、米国に排日起り、西伯利に排日問題起りて、我が国は今や四面楚歌の裡にあり。是れ何故なりやと云ふに、軍閥の侵略主義に基くものにして、若し此の軍閥をして勝手に横暴を為さしめなば結局、日米戦争となるべし。此の国難を避けんとせば議会を改造せざるべからず、議会の改造は普通選挙の外なし。
 一行の遊説は、四月一日の敦賀町敦賀座にはじまり、三日の福井市を経て七日の武生町武生座へと続く。いずこの会場も鮨詰めの盛会で聴衆は各階層を網羅して各講師の演説中は満場緊張して静粛、講師が獅子吼するときは、意気さかんに「元老を葬れ」などと叫び聴衆の政治熱の高さを示した(『大阪朝日新聞』大9・4・1、3、9)。この一連の演説会は、それまで微弱であった県内での普通選挙運動に火をつけることになった。
 福井市の海国青年団は四月十一日、有志会を開いて「普通選挙は国運の進展を促し人心の安定を期する根本政策」と決議し原内閣が問わんとする制限選挙を「国民の要求を無視し……階級的反感を挑発して国家の基礎を危うくするもの」と断じ「普通選挙を主張する候補を援助す」ることを申し合わせた。おりから五月十日投票の総選挙に向けて選挙戦がはじまろうとしていた。しかし福井市には明確に普通選挙を主張する候補者はいなかった。全県をみても憲政会の候補は一人にすぎず、政友会の候補が大半を占めて普通選挙は選挙の争点にはなりにくかった。ところが隣県の金沢市では金沢立憲青年党が普選賛成各派と結束して普選派の永井柳太郎を応援して当選させたのである。これが大きな刺激となって森田村や福井市の有志と金沢立憲青年党との接触と打合せがはじまる。そして福井側の青年党結成の方向が煮詰まり、さらに富山県をも包含した北陸立憲青年党構想まで浮上するにいたった。こうして六月に入ると県内の青年党結成と普通選挙運動はようやくにして動きだす。まず六月十五日、吉田郡森田村(福井市)に森田立憲青年党が結党式をあげ、普通選挙促進演説会をひらく。つづいて八月十九日、福井市三秀園で有志六〇余人が協議会を開き、福井立憲青年党設立を可決して発会式の日どりと永井代議士を迎えての演説会開催をきめる。綱領と細則起草委員一三人を選び草案を作成しただちに提案して可決する。こうして九月九日、市内の加賀屋座で福井立憲青年党の結党式を挙行する。綱領などをきめ、演説会に移り党員たちが雄弁を振い、最後に永井柳太郎代議士が「我党は在野党たるを光栄とす」と弁じて盛んな拍手をあびて盛会を締めくくった(『大阪朝日新聞』大9・6・5、12、15、8・21、9・8、10、『福井新聞』大9・7・5)。



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