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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      市民大会が地域と行政を動かす
 大正六年(一九一七)一月、工場建設予定地となった分監跡地の周辺の町まちでは、新年宴会などを利用して工場建設反対の気勢があがった。松本方面では、反対陳情書の調印をほぼまとめ、東町方面、浪花町方面でも調印を取りまとめ中という。二月になると、工場建設反対の動きは全市にひろがり、二月二十四日、福井市三三区のうち、三二人の区長が連署して、市民の衛生上精練工場の設置を不可とする陳情書を市長に提出した。精練会社の重役会のなかにも、工場統一論と反対論で揺れており、反対論は工場を統一には二〇万円を要し、資本金二五万円程度の会社としては、容易の業ではないというのであった。市民運動が高揚するなかで三月に入り、唐突に福井市は、司法・内務両省から旧分監跡地七〇〇〇坪の無償払下げの内命に接し、ただちに精練会社に対して吐煙に対する衛生設備など三、四件を命令、請書も提出させたという。市会内には跡地処分に関し調査委員を設けて慎重に調査すべきだ、という意見も出ている。事態は流動的なようにもみえ、工場反対の市民の動きも一時、鎮静化することになった。
 ところが、七月、分監跡地脇の官有地の堀を埋立てる件が、突然、精練会社から市に出願される。これに対して市参事会は、これを了承する意見書を添付して、七月十三日、この出願の件を市会に上程する。市会は、精練会社の堀埋立の件は工場建設にかかわり、区民の反対をも考慮して決議を延期させた。工場建設の動きが鮮明になったのである。この市会の動きに呼応して、跡地周辺の宝永校区の市民の動きも再び活発となった。八月二十一日、校区の区長五人が、つれだって市長を訪ね市の意向をただしたが、市長の態度がはっきりせず、区長らは市長は市民に対して不親切だと激昂して帰った。そして同夜の委員会で対応策が協議される(『大阪朝日新聞』大6・1・21、2・21、25、7・14、8・22、『福井新聞』大6・2・23、3・7)。
 八月になると、分監跡地は県精練会社の所有に移り工場新築敷地の標杭も打ちこまれる。宝永校区の市民は、これを宝永区民への挑戦と受けとめたのであろう。異口同音に、市の中央に七〇〇〇坪もの広大な敷地をもつ大工場を建設するのは、衛生上にも教育上にもまったく有害だと断じた。そして委員を選び連日協議をかさね、ついに八月二十四日、第一回の市民大会を学区内の松本館でひらいた。会場は立錐の余地もなく二〇〇余の人びとが場外にあふれる盛会となった。地域を代表する市議や有志が次々に立って工場反対を力説した。決議文は、時代遅れの工場新設計画を根本から破壊し、模範都市の建設を高らかに唱ったものであった。最後に福井新聞の土生彰が「市民の叫びは、今や県市当局を動かしつつあり、勝戦の色は鮮明となれり」と激励した。宝永校区の衆知を結集した最初の市民大会は、成功のうちに終わった(『大阪朝日新聞』大6・8・25〜27)。
 当時の宝永地区は、商業学校、高等女学校、仁愛女学校、宝永小学校があつまる市を代表する文教地区であり静かな住宅街であった。夏の水路には蛍が乱舞する好環境であった(三田村保正氏証言、『毎日新聞』福井版 昭52・3・30)。宝永区の市民が衛生的にも教育的にも大工場の建設は、このうえなく有害であると主張したのは的を射たものであった。県当局も認めざるをえなかったように精練工場が操業を開始すれば白い濁水を流出させて環境を汚染させ、排出する煤煙は付近住宅を汚し運動場の生徒・児童の健康を蝕んだかもしれぬ。さて、賢明で物おじしない市民は、第一回市民大会の成功で大いに気勢があがり、第二回市民大会を専念寺でひらき、引続いて市内各地で市民大会を順次ひらいて反対の気運を盛りあげようとしていた。一方市長は改選期をひかえ市民から不信任呼ばわりされて動揺し、市民運動との妥協の道をさぐる気配さえ示しはじめた。市会に調査委員会を設け工場と市民を調停しようというのである(『大阪朝日新聞』大6・8・28)。
 市民大会は、第一回八月二十五日の松本館以後、第二回は八月二十七日に大和上町専念寺、第三回は九月二日に日ノ出下町真浄寺、第四回は九月八日に照手下町長運寺、第五回は日時場所とも不明であるが、第六回は九月十五日に浪花下町一乗寺、第七回は九月十九日に馬場通り昇平座という具合で、まことに息のながい市民大会であった。この間、九月一日に予定された佐佳枝廼社の大会は、福井警察署により屋外集会と認め禁止された。また九月二日であろうか、反対運動を継続してすすめるため、宝永学区内の各区から一区あて一〇円の運動費拠出をきめている。運動の本部にあてられた尾上上町清円寺では、各町選出の委員がたびたび委員会などの会合をもったが、九月四日の委員会には宝永・進放両学区の市会議員にも出席を求めて運動につき協議している(『大阪朝日新聞』大6・8・31、9・1、3、4、8、15、20、『福井新聞』大6・9・8)。
 市民大会は大きな威力を発揮しつつあった。工場の建設計画は頓挫するにいたった。十二月六日、市会の委員会がひらかれた結果、宝永区民と県精練会社の両者の意見を聴取して問題解決の具体案をつくり、協議をつめることになった。さらに十二月二十一日の市会は、旧分監跡地の精練工場設置に反対する区民の意を諒として、福井市が同跡地を県精練会社から買い戻すか、または宝永組に譲与するを可とし、なお慎重に審議するため分監跡地委員を設けることをきめた。ながい曲折であったが、宝永校区の市民は初志を貫徹したのである(『大阪朝日新聞』大6・12・6、22_)。この大成功をおさめた市民大会は、その後の市民心理に強烈に刻印され、大正デモクラシー期における、福井市民の独特の行動様式の一つとなった。さて、旧分監跡地は、その後、市によって買い戻され、新設計画中の赤十字病院の敷地となった。しかし、病院用地として適地か否かをめぐって、今度は市民自身が、二派にわかれて市民大会をひらき、激しく争うことになった(『大阪朝日新聞』大7・6・19、21、23)。そして、やがて、明るい展望が開けたのである(『福井新聞』大9・4・25)。赤十字支部病院も、ヨリ適当なる地を択んで建設することとなり、分監跡は五間乃至七間幅の十字路を開きて立派な住宅地となり、ソウしてその十字路は旧城内に連絡して、市民年来の希望たる城内開放が実現せられ、本丸内に建築せらるべき県庁、三の丸内に建築せらるべき官公吏住宅、及び停車場などと交通自在になる曙光が見えて来た。



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