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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      監獄廃止の行方と市民意識の成長
 ながい不況で「行政整理」が合言葉になり大正政変の後に成立した山本内閣も、西園寺・桂の両内閣の政策を引き継ぎ六月、高等官八一八人、判任官四四八二人、合計五三〇〇人の行政整理を断行、財政整理とあわせ、六六〇〇万円の財源を確保した。司法省関係では、福井監獄をはじめ富山・鳥取・京都堀川の四監獄が廃止され、ほかに分監一一・出張所一九も廃止されて、典獄以下雇員までを含めると一万人の人員削減になるという。福井監獄は廃止されて金沢監獄福井分監に格下げとなり、大幅な人員整理が実施されて、一〇〇万円余の経費削減になるという(『大阪毎日新聞』大2・6・15、『福井新聞』大2・5・7)。
 福井監獄は福井市中央部の神明神社前の堀の向こうにあった(『毎日新聞』福井版昭51・10・27)。付近の市民は、しばしば刑事被告人や刑囚の往来を目撃させられて、その移転が強く望まれていた。今回の制度整理で金沢監獄分監となり、規模も設備も縮小されるのを好機ととらえて、これを郊外に移転させ、その跡地を風致地区にふさわしい公園などにすることが期待されていた(『福井日報』大2・5・8)。以後、分監の郊外移転について、県市当局は司法省に対して運動をすすめていたが、ついに大正四年(一九一五)九月二十四日、司法省から公電をもって分監移転の条件を提示してきたのである。第一に、福井市は新たに分監敷地として三〇〇〇坪以上を寄付する。第二に、旧分監敷地は代金五万円をもって払い下げる、というものであった。そこで、財源に窮していた福井市長は、ただちに県当局および福井県精練会社社長と打合せをして、旧分監敷地は、五万円で福井市が払下げをうけると同時に、これを精練会社に払い下げることを決め、翌日、契約書を交換する。市長は二十六日、急施市会を招集して秘密協議会をもち、分監移転についての議案を提出した。市長の提案は、出席議員二九人がこれを了承しただちに本会議に移り満場一致でこれを可決した(『福井新聞』大4・9・27)。
 福井分監の移転先敷地についても福井県精練会社が、その三〇〇〇坪の買収費八〇〇〇〜九〇〇〇円を福井市へ寄付し、同社の分散している工場を分監跡地に集中する計画であった。五年一月、同社株主総会で、この計画が重役から報告されると、六万円にもおよぶ大事業を重役限りで決断するのは不都合だと大いに紛糾するが、ようやく多数決で承認された。一方、分監移転先については、足羽郡木田村赤坂山(福井市月見)、同木田村木田地方(福井市一本木)、同和田村勝見(福井市勝見)の三地域が候補にのぼったが、同年三月、木田地方(現福井刑務所所在地)に決定する。同地は道路敷地・溝渠などの官有地を合わせて、実測三〇〇〇坪を坪三円として九〇〇〇円で買収することに交渉がまとまる。しかし、福井分監移転跡地に分散している工場を統一する福井県精練会社の計画が明白となったこのころ、福井分監跡地に精練工場を集中するのでは、せっかくの監獄移転を無意味にするという非難もまた大きくなった(『大阪朝日新聞』大4・12・8、5・1・25、3・15、『福井新聞』大5・3・30)。福井新聞の社説は「市民の熟慮を促す」としてつぎのように論じている(『福井新聞』大5・4・26)。
  元来、市の製絹業も精練業も、孰れも小規模なる家内工業より出発して、今やその大
  半は工場組織に変更し機械、動力の応用に発達した……その工場は家内工業時代
  の旧慣に仍り市中の到る処に散在し、住宅と商店との間に犬牙錯雑する状態を呈して
  居る。……近世都市経営の原則として、早晩、住宅地、商業地、工場地と区画整理せ
  られねばならぬ筈である。……昨今、東京市民と某鉄工所との間に損害賠償、移転
  運動の起りつつあるが如き、……吾が福井市民と精練工場、製絹工場等との間も、早
  晩之れに類似する紛擾葛藤を生ずべきは、余輩の予言し得る所である。……然るに
  分監移転に狂喜したる市当局及び一般市民は、何の思慮もなく、精練会社をして分監
  現在敷地を買取らしめ、分監の代りに囂々喧々たる音響と、濛々漠々たる煤煙とを無
  遠慮に市民に与えて、市民の衛生を危くせしむることゝしたるは、是れ近世都市経営の
  原則を無視したる軽挙にして、後日に紛擾葛藤の種を遺し、市民の為めにも精練会社
  の為めにも、共に取らざる所である。
 筆者は福井新聞主筆の土生彰であったが、再三にわたる彼のキャンペーンは、一部市民や市会有志に大きな影響をあたえた。護憲運動を経て、打てば響く市民の権利意識の成熟が、地域の土壤となっていたのである。福井分監付近の宝永地区の市民のなかから、これらの記事のスクラップをまとめて印刷に付し、市民に配布する者もあらわれた。そして市内各地や市会で工場建設反対運動がはじまることになった(『福井新聞』大9・4・25)。




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