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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      青年市民政社は県下に群生する
 明治から大正への大きな転換の時期に、青年を叱咤激励する新聞人の論調がめだつようになった。それは当時の県下新聞界の双璧と称された福井北日本新聞主筆の長谷川豊吉と福井新聞主筆の土生彰に代表される。両者ともに青年の元気が横溢する自由民権期に十代をおくり青雲の体験をもった。そこから体験的な青年論がほとばしり出ることになったのである。まず武陵長谷川豊吉の議論をきくことにしよう(『福井北日本新聞』明44・2・14)。
  今の青年に反上抗官の気風を教へとは云はぬが、政治思想を吹込んで憲政の何物た
  る位を注入し、多少の政的訓練を施すにあらざれば、之が他日独立自治の人となつて
  も、矢張選挙には手間賃を呉れねば投票が出来ぬと云ふやうな、乞食根性の人間ば
  かりになつて了ふ。吾人等が政論に熱中する時代には、各町村の青年を駆つて政論
  の討論研究を鼓舞したものだが、今日はそれとは反対で、官憲が各地の青年に干渉
  して官憲盲従を奨励するに至るとは、一寸今昔の感に堪へぬ次第である。
 つぎは土生彰の主張である(『福井新聞』大2・5・16)。
  今時の青年は景岳先生の死んだ年頃になつても「吾々若い者では駄目です」と尻込み
  し只チックや香水の良否を論ずるのみで市政や県政や国政に対しては対岸の火災視
  して居る有様である。是れ全く青年の士気の衰弱した実証であって斯く青年の士気の
  衰弱したのは全く藩閥者流が青年を政治より遠ざける教育方針、施政方針を執つた結
  果である。……他面に於ては政界に理想論書生論を欠くと共に実利実行を標傍して
  私利私欲を営むと云ふ傾向を有たせる事となつたのである。是れ実に国家の為め憂
  ふべき現象であつて之れを革新するのは只青年それ自身の覚醒を促す外は無いの
  である。
写真136 土生 彰

写真136 土生 彰

 長谷川はやがて他界するが、土生はその後、福井市青年会、海国青年団、各地の立憲青年党の顧問格として青年市民政社に一定の助言をあたえるが、市民政社が群生する大きな契機となったのは第一次憲政擁護運動であった。
 大正二年(一九一三)六月十六日の咢堂尾崎行雄と木堂犬養毅のいわゆる両堂を迎えての憲政擁護大演説会は、青年政治運動生誕にとって助産婦の役目をはたすことになった。両堂の来福する一か月ほど前の五月十八日、福井市内各地の青年有志三五人が三秀園につどい福井市青年会の発会式をあげる。会長に選ばれた下里宣は会の性格について、従来の青年会は校長や郡市町村長などを会長として官僚的統制を基本としているが、本会は会員の自由意志による親睦団体で政治方面にも大いに活動する、と述べている。そして会が主催する両堂などの憲政擁護演説会の開催を決議して、懇親会をたのしみ五分間演説で気焔をあげて散会した。また六月一日には、市内の海国青年団が役員会を開いて両堂などの諸名士歓迎と団員募集などを決めている。護憲運動で高揚する当時の福井市には、福井青年会、海国青年団のほかに、豊学会、足羽青年会、花月遵奉会、春山青年会、宝永青年会などの政治色の強い団体が生成しつつあった。これらが青年会連合会に結集して六月十七日、加賀屋座で独自に両堂などの講演会を開催することになった。そのため各青年会から二人あての代表を出して代表協議会を開き講演会の諸準備を分担し、両堂の到来を待ちうけていたのである。六月十六日の憲政擁護大演説会は、福井市の二大劇場同時開催で五〇〇〇人という空前の聴衆をあつめたものであった。その余韻の残る翌十七日、福井市青年会連合会の大講演会は開催されたのであった(資11 一―六、『福井新聞』大2・5・20、6・4、8、11、16)。
 四年二月、佐藤知事は郡市長会の席上、総選挙に際して青年会がこれに関与することのないよう注意を喚起する。しかし山品福井市長は、福井市の場合、福井市青年会、海国青年団、豊島壮年会、進放青年団、宝永青年会などは目的がすでに政治的色彩をおびたもので、郡部の町村長管下のものと違い、政治運動はまったくさしつかえないと語っている。このほか、「理想選挙」をもって政友会から表彰された大和青年団があり、五年に結成された政友会系の帝国青年団などもあって、福井市の青年市民政社はこの頃、花ざかりのようなにぎわいであった(『福井新聞』大4・2・17、『福井日報』大1・10・11、3・1・14、『大阪朝日新聞』大5・6・16)。
 郡部の場合も両堂の来県を境として青年政治結社の胎動期を迎える。大正二年六月十八日、三国町青年会は両堂と同道した大阪朝日新聞記者の本多精一などを招き講演会をもっている。また吉田郡でもこのころ、青年が三〇人で春秋会を組織して、閥族打破憲政擁護をめざす同志的結社を造っている。勝山町では四年、青年党が活動をはじめていて、後年の大勢力の基礎をつちかっていた。各地に咢堂会、木堂会などの小グループが成立していた可能性も高い。後述の十年十月、丹生郡吉野村と織田村に木堂会があって国民党の演説会をひらいている事実も指摘しておきたい(『福井新聞』大2・6・19、10・28、4・6・30、『大阪朝日新聞』大10・6・30)。



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