目次へ 前ページへ 次ページへ


 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      「民本主義」記者団と生存権
 明治の終末は、深刻な「閉塞状態」にあったが、この真暗闇の「閉塞」に亀裂をいれ、閃光をはしらせた新聞記者団に注目しておきたい。明治四十四年(一九一一)三月二十七日の福井市会は、特別所得税の発議を市参事会に求める緊急動議を、はげしい討論のすえ可決した。福井記者倶楽部は、かねて市会の特別所得税構想を、低所得の下層市民の生活をおびやかす酷税として、反対の意志を表明していたが、二十八日、ただちに臨時会を開き行動を開始した。すなわち、二十九日、各社の委員四人は、市長を訪ね、特別所得税に対する市参事会の意向をただした。市長は調査のすえ慎重に対処するとのみこたえた。記者団は、同税は賦課すべからざる根本的悪税と断じ、強硬な決意を伝えてひきとった(『福井新聞』明43・11・11、44・3・29、30、『福井北日本新聞』明44・3・30)。新聞の主張をみよう(『福井新聞』明44・3・29)。三百円以下百五十円以上のものに特別所得税を課せんとするは、是れ実に民の衣食を奪ふものである。市会議員が市民の衣食を奪はんとするとは、何んたる恐ろしい料簡であらう。実に着て居る蒲団を剥ぎ、飯を炊きかけた釜を取つて行く高利貸よりも、一層没義道な鬼である。吾等は一身を犠牲にしても市民の為めに、此の悪鬼羅刹を退治ねばならぬ。市民も亦群起して自家防衛の為めに此の悪鬼と奮闘すべしである。
 新聞の猛然たる攻撃にさらされた市会は、やむなく撤退に転じた。三十一日、市会多数派は「参事会において調査の結果、特別所得税にかわる良案があれば、これを市会に発案されたし」と発議し了承されたのである(『福井北日本新聞』明44・4・1)。この事件は、正義と公正を主張する新聞の権威と声望を高めることになった。
 福井市会の特別所得税提起の背景となったのは、不況下における地方財政の膨張であった。市の基幹財源となっている戸数割が、課税基準の不透明な見立割で苦情百出のありさまで、その抜本的改革をめざして福井市は、四十三年度より家屋税を発足させる。土地の等級と家屋の種類・坪数という不動の基準によって税負担の公平をはかろうと企図したのである。しかし、この試みも不動産所有の有無にかかわる階層間対立、土地等級の設定をめぐる地域間対立、大きな建坪をかかえる旅館・貸席など業者の不満などで紛糾をかさねる。あげくの果てに特別所得税という「貧乏人征伐」が飛びだすことになったのである(『福井北日本新聞』明44・3・31)。
 県内の各新聞が、生存権擁護の主張をかかげた、この時期は、民衆の生存権が脅威にさらされていた。四十四年九月、大野郡勝山町では米穀商の門前の貼紙が「みだりに米穀を移出し、ますます米価を高価ならしむるは町民の敵なり、何時いかなる椿事を起こすや測りしるべからざれば戒心せよ」とあって勝山・大野の警察をおどろかせ、米価調節にはしらせた。福井市では、吏員が夕食時をめがけて細民調査にのりだすが、鯖江・丸岡・三国の各町では施米や外米の廉売が実施された(『福井北日本新聞』明44・9・2、4、7、14、20)。
 四十五年六月から七月になると、事態はいっそう深刻となり、福井市内の各小学校では、飢餓から児童の欠席がめだち、欠食児童の実情が報道され、記録破りの米価の奔騰がつづいて人心不安を増幅させた(資11 一―五、『福井北日本新聞』明45・6・21、7・2、5〜7)。新聞五社と福井市長の連名で細民救済の義援金募集が軌道にのって、福井市をはじめ各市街地では、二か月以上の長期にわたり外米や麦の廉売が実施される。この数年にわたって発現しつづけた食糧問題は、社会的危機の深刻さを知らせるものであった。また、きびしい食糧問題が提起された数年間、県内では労働争議が、かつてない頻度で続発することになった。生存権の主張は木挽・石工・製紙の職人層や人力車夫、織物工女と病院看護婦の争議となって発現した。そして大正二年(一九一三)二月、福井県精練会社工場の労働者の争議は、男子工場労働者の争議として注目された(資11 一―三〇八〜三一四)。争議は簡単に鎮静したが、新聞は「将来、労働問題・社会問題の紛起する兆候を予告する」新時代の警鐘と論じて経営者や行政当局・政治家の注意を喚起したのである(『福井新聞』大2・7・5)。
 この県内とまったく同じ歴史の鼓動のもとにあった東京では、二年二月十日、民衆が国会を包囲し桂内閣を倒壊に追いこんだ。大正の劈頭をかざる護憲運動の一応の結末であるが、さらに民衆は政府系新聞社と警察をおそい軍隊が出動して鎮定にあたる。都市民衆の騒擾は、つづいて大阪・神戸・広島・京都へと波及し、翌三年にかけて労働争議や営業税など諸悪税反対運動とも連動して諸都市を波状的におそう(資11 一―三五五〜三五七)。そして都市民衆騒擾期の一つの峰を形成する。しかし、この時期の騒擾は大都市に限定されるものではなかった。大都市の騒擾と呼応するように二年二月二十三日、大飯郡本郷村の村民一〇〇余人が、村役場へ村会傍聴に押し寄せて議事進行を不可能ならしめた。過重な予算が、村民の負担に耐ええないというのである。一か月あまりにおよぶ村長派と村民の抗争で、ついに四〇〇余人の村民が夜半に村長など村閥の家宅を破砕する挙にでて世間をさわがせることになった(資11 一―六二〜六四)。



目次へ 前ページへ 次ページへ