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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      大戦景気と染織工業の再編成
 大正五年(一九一六)は、福井県の機業にとって、不況から新しい好況へ跳躍する転機の年となった。大戦景気の象徴ともなる仏蘭西縮緬が、市場へ本格的にデビューしたのである。大正三年から四年の不況のさなか、工業試験場と福井市の広部音松、春江村の西畑順栄など有志機業家によって開発と試織の苦心が、ようやく実りの穂を出したのである。この年、アメリカは開戦ショックの不況を離陸して上昇気流に乗り、そこに向かって日本製生糸がとうとうと輸出された。生糸価格は、暴騰をとげ福井市で三月には前年同月比で五割弱の高値をつけたが(資17 第484表)、そのため羽二重機業家は不採算に苦悶する毎日となった。しかし好況へのささやかな芽は吹いていたのである(『福井新聞』大5・3・31)。
  機業家は孰れも意気消沈し……多くはその操業を休止し……二三の聡明なる機業家は、漸く
  羽二重の如き半製品に見切りを付け、内地向諸種の織物、若くは壁縮緬、仏蘭西縮緬、其他
  稍々精巧なる特種品に向つて製織の指を染めんとする兆候が生じて来た
のであった。その「兆候」の一つを坂井郡春江村にみよう。同村江留上では、仏蘭西縮緬の製織を大規模にすすめる計画で試織をかさね、機台装置の変更などの諸準備に余念がなかったが、残念ながら縮緬原料の撚糸は遠く群馬県桐生あたりに仰がざるをえない。そういう不便と不安のなかで「予期の効果を得べきや否や不明なるも、とにかく同地方にては目下大なる意気込みを以て試験中なりと」伝えられる(『福井新聞』大5・3・31)。五年段階の仏蘭西縮緬の生産は、表169に示すとおり、まだ微々たるものにすぎず、製織機台数も四月のころ、春江村で四、五〇台、福井市と大野町で各一〇台ほどであったが、アメリカへの売行き良好で利幅も大きいので機台もますます増加の傾向にあった(『福井新聞』大5・4・24)。そして八月、羽二重検査所の調査では、機台数は二五〇台に著増して、生産高も月産二五〇〇疋に上り、昨年の月平均二五〇疋の一〇倍という激増となった(『大阪朝日新聞』大5・8・23)。このような仏蘭西縮緬の躍進に着目していた黒川栄次郎らは、五年五月「撚糸ノ製造及ビ染色加工」を営業目的とする福井撚糸染工株式会社を創立する(『セーレン百年史』、資11 二―七九)。仏蘭西縮緬生産にとって最大の障害と危惧されていた、原料撚糸の県内自給への展望がひらかれることになったのである。

表169 福井県の輸出向絹織物生産額(大正3〜8年)

表169 福井県の輸出向絹織物生産額(大正3〜8年)
 利潤の薄い半製品・羽二重から、高い利幅をもとめて仏蘭西縮緬などの撚糸系変り織への奔流が始まった。六年から七年にかけての縮緬人気の沸騰ぶりは、すでに示した統計がなによりも雄弁である。ここでは、一台の力織機が縮緬を織るか羽二重を織るかによって、稼ぎがどう違ってくるかを表170についてみよう。まず縮緬一本を織るのに羽二重と比較して、一五円弱の高いコストとなる。撚糸加工をした高い緯糸、織り賃・精練代・糸繰り管巻に糊代など雑費を合わせて総原価で六四円六五銭となるが、平均売価八〇円三〇銭で一本につき一五円六〇銭の純益となる。月間織上げを七本と抑えても、一か月力織機一台で一一〇円弱の稼ぎとなる。平羽二重と比べ倍以上の利益を上げるとなると機業家が縮緬製織に走るのは当然であった。ところが、ここでいくつかの難問がある。機業家が、縮緬に殺到することものすごく、そのため電動力の不足、工女の不足が慢性的となる。わけても原料撚糸の不足は飢餓状態を呈する。一〇貫目八八〇円の生糸に撚糸加工賃が高くて一五〇円で一〇三〇円ほどの撚糸となる。それが一三〇〇円の高値相場を呼び、しかも容易には手にはいらない。多くの機業家は利益を承知で縮緬製織には手がだせないのである(『大阪朝日新聞』大7・4・9、10)。

表170 力職機稼働利益

表170 力職機稼働利益
 もともと桐生の上毛撚糸会社、名古屋の帝国撚糸会社、京都の日本撚糸会社などから撚糸の供給をうけて発足した県下の縮緬製織は、恒常的な原料不足にあえいでいた。そこで、福井撚糸染工株式会社は、機業家の熱い期待をあつめて大正五年五月に創業した。しかし、イタリア式で五〇〇〇錘撚糸機の到着がおくれて、撚糸部門の操業は六年五月となった。そして九月には四〇〇貫の撚糸製造能力をもつにいたったが、需要には応じきれない。昼夜フル操業のうえ懸命の設備増設を続け年末一万錘がめざされたが、二、三万に増錘しても圧倒的な需要にはとても応じきれない、として新工場の建設が企図されることになった。同社の資本金は五年の創業当初一〇万円であったが、毎年三倍増資を続けて七年には資本金を一〇〇万円とした(資11 二―八〇、『セーレン百年史』、『福井新聞』大6・9・8、『大阪朝日新聞』大6・12・13、7・4・10)。
 こうして仏蘭西縮緬ブームは、県内に撚糸業という新しい加工業を誕生させることになった。福井撚糸染工株式会社につづいて、大正六年、福井市には越前撚糸株式会社が創業する。七年ともなると、新会社・新工場の創業ラッシュとなり、大野町に大野撚糸株式会社、舟津村に鯖江撚糸株式会社・今立撚糸株式会社、円山西村に開発撚糸合資会社が創立されるが、この年、県内で操業中の撚糸工場・作業場群は九〇にも及び、その総錘数は九月現在で七万九六三四錘に達する。また撚糸業の工場(職工一〇人以上使用)職工数も表171のように総工場職工数の七・四パーセントとなり製糸業をしのいで織物業につぐ、第二位を占めるにいたった。このうち、職工一〇人以上を雇う工場は二七を数えるのみで、多くは職工数人の零細家内工場であった。撚糸熱の僥倖にあやかろうとする無経験の素人撚糸業や、機業家の扇動に幻惑されたにわか業者、それに自家の原料確保をめざす機業の兼営などで、この群小撚糸業の大量発生は、乱暴きわまる不良撚糸を不可避とするから、縮緬業界への苦情殺到も懸念されることになった(『県統計書』、『大阪朝日新聞』大7・7・12、11・20、8・4・8)。
 かずかずの問題をかかえながらも、仏蘭西縮緬を中心にすえた撚糸系織物の一大活況は、県下の産業に雇用の厚みを加え、徐々に産業構造の変化を導く効果をもたらした。撚糸業とならんで、縮緬精練、それに柞蚕糸織物たる絹紬の精練、および染色加工業など、明治期には存在しなかったかずかずの新規加工業を輩出させたのである。
表171 「工場」種別の職工数

表171 「工場」種別の職工数



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