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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      大戦の衝撃と行政の冷静な対応
 大正三年(一九一四)八月、政府はドイツに宣戦し、九月、日本軍は青島を攻撃する。この戦闘で海軍は、九月五日、フランス・ファルマン社製の水上飛行機をもって膠州湾上を偵察し、軍事施設に爆撃を加えた。潜水艦・戦車とともに新しく大量に登場した初期の軍用飛行機は、木製合板の骨組に主翼は、布張りというプリミティブなものであった(『図解・世界の軍用機史』五・一)。欧州へ輸出された県産の羽二重は、この飛行機の羽翼用としても使われていたが、その輸出は順調ではなかった(『福井新聞』大5・6・16)。フランスでは開戦当初から、重目の羽二重は敵ドイツ軍により軍事用に使われる恐れがあり輸出を禁止していたが、四年九月になって、比較的軽目の羽二重も敵軍の軍事使用が明白になった、として中立国・同盟国を問わずいっさいの羽二重輸出を停止したのである。十二月三日以後、中立国スイスあてに発送された羽二重が、国境税関でフランス側に差し押えられる事態が発生する。大戦以前、フランスは日本製羽二重の第一の輸出国であり、しかもその三分の二は再輸出されていた事情があり、フランス政府の羽二重禁輸措置は輸出向羽二重にとって大打撃となった(『福井新聞』大4・12・5、農商務省『輸出絹織物調査資料』明治四四年)。
 しかし、問題はもっと根元的なところにあった。開戦直前の三年四月以降、すでに県内の景気動向をはかる指標となっている福井市組合銀行の生糸・羽二重に対する貸出高は、記録的低水準を示していた。そこに、七月「欧州大戦争の突発するや約十日間、市況惨憺たる光景を呈し宛然、暗夜に灯火を失ひたる状態」に陥った(前掲『三十五年史』)。それは、「世界の銀行」たるイギリスが交戦国の一方の雄となったため、ロンドンの国際信用機構が機能を停止して貿易が途絶し、大戦ショックともいうべき不況となったのである。つれて県下の農家経済も深刻な影響をうける。福井市の卸売米価は、元年十二月の高値、一石二一円五〇銭から下値をおいつづけ、四年一月の米価調節令による過剰米買上げにもかかわらず、豊作を伝えられた九月には、一〇円八〇銭という半値以下の惨落をとげたのであった。政府は暴落する生糸に対しても四年三月、帝国蚕糸会社を設立して、五〇〇万円の助成金をあたえ市況の回復にあたらせたのである(資17 第484表)。
 大正三年十一月五日、佐藤孝三郎知事は、県会で四年度のきびしい緊縮予算を提出し、自ら説明にあたる。しかし県会では、この予算案は県民生活が直面している深刻な景況を認識していない、として減額修正をせまり、緊迫した議論の応酬となった。県下の機業家にとって、長年の念願であった工業学校創立についても、創立そのものは可決されたが、経費節減のゆえをもって学校新築費は否決され、工業学校の授業は工業講習所の古い建物を利用してはじめられる(大正三年『通常福井県会会議録』)。しかし、県会にみなぎる財政整理をもとめる重苦しい空気のなかで、県当局の政策的努力の方向性も垣間みられた。それは、国力伸張の基礎になる地場産業の振興と、その大胆な改造をめざすものであった。その大要を知事の予算案説明に即して検証し、若干の展望を示しておこう。
写真135 佐藤孝三郎

写真135 佐藤孝三郎

 知事は、第一に「産業ニ関スル本県々是ヲ定メ」るため「各方面ノ実業家ノ意見ヲ聴キ之ヲ取捨研究スル」ことが急務だ、として産業調査会の設置を提唱する。翌四年四月、県官と民間有志の五〇人による委員をもって産業調査会を発足させ、そこでの検討の成果は、勧業政策やその後の予算編成に生かされるようになった(大正三〜五年『通常福井県会会議録』)。表168は、大戦期の県歳出の推移を追ったものであるが、水害復旧で土木費がかさんだ大正三年以後は、きびしい不況を考慮して歳出抑制が続くなかで、勧業費にウエイトをおいた歳出構成を読み取ることができる。

表168 第1次世界大戦期の県歳出

表168 第1次世界大戦期の県歳出
 第二に知事は「本県織物ノ主要品タル羽二重ハ未タ半製品ノ域ヲ脱セサル織物」で「原料生糸ト製品トノ価格ノ差、甚タ多カラサルヲ以テ産額ノ大ナル割合ニ利潤薄」く、これを付加価値の高い「精巧ナル織物ノ製織」に替えることを力説する。さらに羽二重についても「染色工程ヲモ加ヘタル上輸出スル」ように改善したい、と輸出向絹織物業界の構造改革を論じている(大正三年『通常福井県会会議録』)。この十一月県会での知事の発言は、大戦によって深刻化する羽二重不況に積極的に対応しようとするものであった。県勧業当局は、大戦を契機とするフランス・ドイツなど高級絹織物の生産と世界市場への供給の途絶を予見し「本邦品ノ販路開拓上、絶好ノ機会ナリ」ととらえていた。そして、工業試験場は「仏蘭西縮緬」をはじめとする特殊高級織物について、意欲的な試織活動と機業家への勧誘を展開する。のちに喧伝される「縮緬成金」「女工天下」の出現の大舞台を提供した仏蘭西縮緬の出生の秘密を、この不況のまっただなかの県工業試験場の営みのなかからうかがうことにしよう(大正三年度『業務工程報告』福井県工業試験場)。
  試製品ハ之ヲ横浜某商館ニ送リ、其ノ批評ヲ求メタルニ大体ニ於テ成績佳良ナルヲ認メラレタレ
  バ、之ガ製織ノ有利ナルト其ノ製造法ヲ本県当業者ニ勧奨セリ。幾何モナク当業者ノ某有志ハ、
  本織物ノ製造ヲ企画シ万事本場ノ指導ヲ乞フ。依テ緯糸ノ強撚糸ハ未タ本県内ニ製造スル所ナ
  ク、本場ノ設備又過小ニシテ到底多量ヲ生産シ能ハザルガ故ニ、之ヲ先進機業地ニ仰ギ力織機
  ハ本場備付ノ替杼付力織機ヲ以テシ十数匹ノ試織ヲナシ市場ニ提供セルニ頗ル好評ヲ博セルヲ
  以テ、某有志ハ直チニ従来ノ一丁杼力織機ヲ二丁杼力織機ニ改造シ、目下盛ニ優良ナル本織物
  ヲ製造シツツアリ、……近キ将来ニ於テ本県重要物産ノ一タルニ至ル可キヲ期シテ疑ハザル所
  ナリ。
 また撚糸を用いた高級織物とならんで、絹紡糸や柞蚕糸を使用する大衆的絹織物、また絹綿交織織物・輸出向綿織物など、実に多彩な新規織物の開発と試織が、不況のどん底のこの時期に精力的に実施され、機業家を刺激して大きな影響をあたえたことは注目に値する(大正三・四年度『業務工程報告』福井県工業試験場)。



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