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 第四章 大正デモクラシーと県民
   第一節 第一次世界大戦と戦後社会
    一 第一次世界大戦下における県民の体験
      大戦前夜「生活難」の社会構造
 明治から大正へむけて地方社会の変動は、まことにすさまじいばかりであった。古い生産と流通の仕組みの根幹が、音をたてて崩れおち、新しいものにとってかわられる。県下の主力産業、輸出向羽二重の製織では、手織機にかわって力織機が、電動力の轟音とともに嶺北一帯の機業地を総なめにしていく。つれて羽二重精練業も、和釜で煮沸し乾燥に炭火をつかう職人の手仕事から、蒸気汽鑵と遠心力絞水機を基幹とする近代的装置産業となった(福井県絹織物同業組合『三十五年史』)。また、人の交通も荷物の搬送も、北陸線開通につぐ第二の変革期を迎えようとしていた。嶺北では、すでに金津・三国間に北陸線の支線が営業を開始し、福井・大野間の越前電気鉄道や丸岡軽便鉄道、武生・岡本間軽便鉄道が次々に開通しようとしていた。若狭では小浜線敷設計画の着工準備がすすみ、大飯郡の本郷軌道が鉱石輸送をはじめようとしていた(『県史』三 県治時代)。道路では、乗合馬車から自動車輸送への転換が、試みられていた(『福井日報』大1・11・15、2・6・26、『福井北日本新聞』大1・11・23)。
 しかし、この生産と流通における新旧の様式交代劇は、激しい社会的きしみをともなうものであった。輸出向羽二重機業では、表167にみるように、資本力をもたない多数の零細家内工業は、力織機化に適応できずに廃業に追いこまれる。そして、比較的少数の力織機工場を中心とする業界に再編成される。この力織機と電動力による機業界の革新は、手織機とともに大量の織工を駆逐しながら進行する。力織機化がはじまりかけた明治四十二年(一九〇九)の織工数は二万一六二一人を数えたが、力織機がほぼ手織機を凌駕した大正二年(一九一三)の織工数は、一万一一〇〇人にまで激減する(資17 第335表)。わずか四年間で四九パーセントものドラスチックな人べらしは、零細な家内工業的な機業の大量廃業とあいまって、きびしい不況下に多くの人びとの家計から収入源をうばうことになったのである。精練業の近代化にともなう精練職人から工場労働者への転換もまた、働く人びとにとっては賃金・労働時間など、きびしい境遇への転落という非情な側面をもつものであった(資11 一―三一三)。

表167 福井県の輸出向羽二重業(明治41〜大正2年)

表167 福井県の輸出向羽二重業(明治41〜大正2年)
 交通運輸の変革の足音が聞こえはじめた明治四十四年四月、粟田部と鯖江を結ぶ電鉄敷設の認可申請中と伝えきいて沿線の村むらの人力車営業や荷車輓の「細民」は大打撃をこうむる、とうわさされ深い憂慮につつまれる(『福井北日本新聞』明44・4・6)。大正元年の九月には、敦賀の人力車夫八四人が再三会合して当局へ何事か嘆願を準備中で「車夫連の鼻息仲々荒らく、事態容易ならざるの兆候あり」(『福井日報』大1・9・10)と報ぜられる。すでに前年、三方郡・敦賀郡間に荷馬車が往来するようになって、貨物運搬を業とする荷車輓一〇〇人余が職を失い、今回さらに乗合馬車が開通して、人力車夫が生活に窮する次第となった。この年、県内は乗合馬車ブームで敦賀・小浜間をはじめ、武生・岡本間、福井・鯖江間にそれぞれ開通をみており、その成功に促されてか、乗合自動車の運行も福井・武生間と敦賀・小浜間に計画されて試運転が行われている(小谷正典「福井県における軽便鉄道の敷設」『福井県史研究』一二、『福井日報』明45・6・23、27、7・5、大1・9・10、20、11・1、15、2・6・26)。そして多くの荷車輓と人力車夫などの「細民」を困窮と失職の恐怖にさらすことになった。
図42 三国米穀取引所の米相場(明治42〜大正3年6月)

図42 三国米穀取引所の米相場(明治42〜大正3年6月)

しかも、この時期は日露戦後の間接税中心の重税が物価高騰をまねき、さらに外債依存の借金財政から貨幣の増発がすすんでインフレーションを進行させる。「生活難」の声は職人・日雇・労働者など下層社会の人びとはもちろん、小営業や「中等貧民」と呼ばれる下級官公吏・教員・巡査などの新中間層の間にまで広がって深刻な社会不安を醸成していた(『福井北日本新聞』明45・3・19、6・1、2、18、7・1)。そして、当時の生活に決定的な重みをもつ米価は、図42にみるように明治四十四年から急騰をはじめ、翌大正元年から二年にかけてピークをつげる。不景気と産業革新と米価高騰の追い討ちにあって、「生活難」のどん底に喘ぐ民衆的諸階層は、生存の限界にたたされることになった。この米価グラフの一大高峰が、県内における最初の労働争議の高揚期と重なったのは、決して偶然ではなかった。のみならず、この県内の動向は、全国をゆるがした第一次憲政擁護運動と大都市民衆騒擾と同じ歴史的脈動に属するものであった。



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