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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    五 郵便と電信・電話事業
      電話の利用
 大正元年(一九一二)十二月現在、電話の総加入者数は一七五四人を数えるが、その大半は民間の商工業者であった。その内訳を多い順にみていくと、「料理屋業」(一五一)、「和洋反物商」(八八)、「芸妓業」(八〇)、「旅館」(七八)、「機業織物工業」(七一)、「魚商」(六二)、「医師」(六二)、「羽二重商」(五八)、「米穀商」(四九)、「倉庫運送回漕業」(四九)などである。さらに、これを局別にみると、福井局では「機業織物工業」と「羽二重商」、敦賀局では「海産物肥料商」と「倉庫運送回漕業」が多く、両地域の商工業の特色がよく表れている(『県統計書』)。
 つぎに、一加入者あたりの年間の平均通話度数(一度数は五分間の通話)をみてみよう。明治三十七年(一九〇四)から四十四年までの平均度数は約四五〇〇度で、一日平均にすると約一二度となる。かなりの頻度で利用されていたといえよう。しかし、市内通話と市外通話の割合をみると、市外通話がきわめて少ない(『県統計書』)。市内の通話料金は、大正九年三月に度数料金制が採用されるまで、年間使用料三八円で無制限に利用できる均一料金制がとられていた。それに対し、市外通話は明治三十九年六月から距離数に応じて通話料を加算する料金制がとられ、遠距離の通話料金はひじょうに高かった。横浜・福井間を例にとると、一通話あたりの一円三〇銭に呼出し料二五銭が加算され、計一円五五銭の通話料が必要であった(『福井新聞』明41・2・1)。この料金を当時の市外電報料金(片仮名一五字以内の一音信で二〇銭)と比べると、福井・横浜間の通話料金は電報料金の約八倍にもなる。そうしたことから、電話はおもに近距離に利用され、遠距離の場合は電信を用いることが一般的であったと思われる。



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