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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    五 郵便と電信・電話事業
      電話事業
 電話機は明治九年(一八七六)に日本に輸入され、官公庁、とくに警察関係機関で事務用に利用されていた。民間においても、会社の本・支店間などに「私設電話」が架設されていた。福井県においても、十七年に県庁・福井警察署間の警察電話、二十二年に福井郵便電信局と勝山郵便電信局間に電報送受用の電話線が架設され、二十六年には敦賀の大和田銀行本店と金ケ崎出張所の間に私設電話も架設された(『北陸の電信電話』、『敦賀郡誌』)。
 二十二年にようやく政府は、電話事業の官営化を決定した。翌年四月、「電話交換規則」が制定され、十二月から東京・横浜間で初めて一般公衆用の電話交換業務が開始された。その後、政府は二十九年から七か年の継続事業として電話の拡張計画を実施し、大阪・京都・名古屋など大都市を中心に、全国主要二〇都市で電話交換業務が行われるようになった。
 福井県では三十六年七月、福井電話局で最初の一般公衆用の電話交換業務が開始された。福井局は前年十月に、一般の電話加入申込みの受付を始めた。当時の新聞には、「我先に申込まんと、前日甚しきは二十三日より交換局前に詰掛けたるものすらありて、当日午前六時開局となるや、多数の申込人潮の如く侵入し、警戒の巡査の腕に噛み付くものさへあり、非常の混雑を極め」と、やや大げさではあるが、加入申込者で混雑する福井局のようすを伝えている。申込口数は当日の正午までに五五六に達していたというが、実際に受理されたのは「普通加入者」約二〇〇であり、七月五日から交換業務が開始された(『北国新聞』明35・10・27、『県統計書』)。
 電話の通話区域は、三十八年まで福井局区内(市内)に限られていたが、三十九年に金沢との市外電話が可能になり、さらに四十一年には東京・横浜・京都・大阪・神戸・名古屋への長距離電話が開通して、その範囲はしだいに広がっていった。
 その後、県内の通話網は広がり、大正元年(一九一二)までに武生・三国・鯖江・敦賀など一二か所の電話局が開設され、各地で電話が利用できるようになった(表166)。また、各局内には公衆用の電話所が置かれ、加入者以外の一般利用の便宜もはかられていた。明治三十九年には、福井駅構内に自働電話(公衆電話)が置かれることになった。

表166 電話加入者数

表166 電話加入者数



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