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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    五 郵便と電信・電話事業
      電信の利用
 『県統計書』には、明治十五年(一八八二)から十八年に限って官・私別の電信の発着数が記されている。その割合をみると、私信が全体の九割以上を占め、電信は当初から民間の経済活動で多く利用されたと推測される。
 そこで、十五年から二十一年までの局別の発着数をみると、坂井・敦賀両局で全体の約六割を占める(表165)。坂井港・敦賀は県内屈指の交易港であり、全国各地の商品を扱う問屋や北前船主などの海運業者が集中していた。電信は、海運業者らが遠隔地の商品相場などの情報入手の手段に利用していたのであろう。とくに、十七年四月には敦賀・長浜間の鉄道が開通し、敦賀港の物資集散地としての役割がいっそう大きくなると、敦賀局は坂井局を上回り、県下でもっとも電信発着数の多い局となった。当時の新聞も、「当港(敦賀)神楽町の電信局は、船手向又は大坂米商等の事につき随分発受信に多事を告ぐる趣、専ら北海道奥羽越後越中等よりの電信也」と報じている(『福井新聞』明17・10・11)。

表165 各電信局の発着信数(明治15〜21年)

表165 各電信局の発着信数(明治15〜21年)
 その後の電信の発着数は、二十二年以降、増加の一途をたどった。二十二年に九万四〇〇〇通あまりであったのが、二十七年には二〇万通を超え、三十九年には五〇万通に達している(図41)。
図41 電信発着信数(明治15〜44年)

図41 電信発着信数(明治15〜44年)

 電報料金は、十八年五月の「電信条例」で全国均一料金制となり、和文一音信(一〇字以内)が一五銭で一〇字を増すごとに一〇銭増(市内は一音信五銭、一〇字増すごとに三銭)であった。三十二年四月からは和文一音信(一五字以内)が二〇銭で五字増すごとに五銭増(市内は一音信一〇銭、五字増すごとに三銭)に引き上げられた。
 この料金は郵便料金と比べると高額で(葉書の場合、三十二年まで一銭、それ以降は一銭五厘)、電報の利用に際しては、制限された字数内でより多くの情報を伝えるために暗号や略号を用いることが一般的に行われていた。



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