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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    五 郵便と電信・電話事業
      電信事業
 明治二年(一八六九)十二月、東京・横浜間に電信線が架設され、わが国最初の公衆電信が始まった。六年には東京・長崎間、八年には東京・北海道間が開通し、電信線は日本を縦貫することになった。その後も国内電信網の整備が進められ、十年代前半には全国の主要都市が電信で結ばれた。
 北陸地方に電信が開通したのは、十一年九月であった。天皇の北陸巡幸にともなって、滋賀県大津から石川県魚津(富山)にいたる電信が架設され、福井県では福井と敦賀に電信分局が置かれた。
写真134 電信柱と電信線

写真134 電信柱と電信線

 また十五年八月には、敦賀・小浜間の電信が開通した。これは、石黒務県令の請願にもとづいて実現したものであった。十四年二月の福井県設置により、嶺南四郡で滋賀県への復帰を求める運動が起きた(第一章第四節二)。石黒県令は、この運動への対処を理由に、政府に電信架設を請願したのである。これをうけた政府は、西京分局(京都)から兵庫県豊岡までの電信建設費を流用してまで、電信架設を急がせた(「太政類典」第五編第二四巻)。
 このように、県内を縦貫する電信線は、天皇の北陸巡幸や嶺南の復県運動に際して、どちらかといえば治安・行政上の要請が契機となって架設されていったのである。
 また一方で、この時期は民間による電信架設の請願もあいついだ。その多くは商業活動に電信を利用することを目的にしていた。政府は、財政支出の節減と電信の普及という相反する課題を解決する方策として、十四年八月、架設費の一部を地元民間人が負担する「献納置局制度」を発足させた。
 福井県ではこの制度が開始される以前に、民間による電信架設が認められている。十二年十一月に開通した福井・坂井港(三国)間である。十一年六月に内田周平ら坂井港の商人は、一五〇〇円の献金を条件に同港への電信架設を請願し、翌十二年二月に認められた(『三国町史料』内田家記録)。
 このような経緯をもって、福井・敦賀・坂井・小浜の各電信分局が設置され、これに十三年二月に開局した武生局を加えると、十五年までに県内では五つの電信分局が置かれた。しかし、十年代後半は松方財政のデフレ政策のため新局の設置はみられなかった(『電信電話事業史』)。
 二十年代にはいると、政府は再び電信網の地方への拡大をはかり、各地に電信局を設置するようになった。福井県においても、二十二年に勝山局、二十四年に大野局、二十六年に鯖江・高浜局が設置された。また、日清戦後には通信機関の充実が重点施策の一つとされ、二十九年には全国で約二三〇か所の電信局が開設された。このとき、福井県でも吉崎・丸岡・西田中・今庄・三方・早瀬局が開設した。また、三十四年四月には福井・横浜間の直通線が開通し、所要時間が短縮された。



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