目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    五 郵便と電信・電話事業
      郵便制度の普及
 明治五年(一八七二)七月になると、ほぼ全国で郵便制度が実施された。この時、足羽県では福井・金津・坂井港・大野・勝山の五か所、敦賀県では敦賀・疋田・今庄・武生・佐柿・小浜・熊川・安賀里・高浜の九か所に郵便取扱所が置かれた。これらは、いずれもかつて宿駅などがあった交通の要衝の地に設置されている。七年六月から七月にかけて、さらに二八か所の郵便役所(取扱所は七年一月に郵便役所と改称)が増設され、ほぼ県内全域で郵便が利用できるようになった。また、八年二月には、福井の市内四か所に郵便利用の便宜をはかるための郵便函場(ポスト)と切手売下所も設置された。
写真133 郵便ポスト

写真133 郵便ポスト

 ところで、郵便役所は政府の委託機関に位置づけられていたが、建物は業務責任者に任命された「郵便取扱役」が私宅の一部を提供したものであった。また、取扱役は準官吏として待遇されたが、わずかな給与(手当)で、しかも郵便経費も十分には支給されなかった。このため、取扱役には地方の資産家が選ばれた。
 八年一月、郵便役所は郵便局と改称され、局の規模などによって一〜五等に分けられた。県内では、敦賀局が二等、福井・武生局が三等、坂井港・勝山・大野・今庄・小浜が四等、それ以外は五等局とされた(駅逓寮『明治八年日本帝国郵便規則及罰則』)。その後、郵便局の新設や改廃が進められ、福井県が誕生した十四年には四八か所を数えた。また、切手売下所も十四年には一一か所であったのが、翌十五年には四七七か所と大幅に増設された(『県統計書』)。
 これにともない、各局の郵便取扱量も増加した。七年の敦賀県内の総取扱数は、約二八万通であったのが、十四年には一五三万六〇〇〇余通となり、翌十五年には一挙に二五六万七〇〇〇余通と急増している(表164)。この郵便取扱量の増加によって、郵便局の運営に支障をきたす局もあった。たとえば、上海浦郵便局(越前町)では、八年の配達数は六八一通であったのが、十四年には五四二三通と約八倍になっている。そのため、翌十五年五月に岡田彦三郎取扱役は、十年七月から月一円で配達人を雇っていたが、配達量が激増したので配達賃銭の増額を出願している。駅逓局もこのような配達量の増加を配慮し、六月には賃銭を二円三〇銭にふやしている(岡田健彦家文書)。

表164 通常郵便物取扱数(明治5〜7・11〜44年)

表164 通常郵便物取扱数(明治5〜7・11〜44年)
 このように十年代前半から半ばにかけて、郵便の利用が急速に増加し、郵便事業は当初に比べて大きく拡大した。それにともない、政府は郵便事業の整備を進めた。十六年一月施行の「郵便条例」では、郵便物を四種に分け、郵便料金を全国一律化することで、郵便物の料金体系を整備した。さらに、同年三月施行の「駅逓区編成法」では、全国を五二の駅逓区に区分し、一駅逓区をいくつかに分けて郵便区とし、郵便区ごとに郵便局を置くこととした。また、郵便路線を大・中・小に分け、局間の郵便物輸送の合理化・迅速化をはかった。さらに、地方郵便局の管理体制も整備した。これまで各府県の駅逓掛などが行っていた郵便局の設置改廃計画や切手の出納検査などの業務管理を、全国三五か所に設置された政府直轄の駅逓出張局が行うこととした。このとき、県内では福井に福井駅逓出張局が、敦賀にはその分局が置かれた。
 十八年十二月の内閣制度の発足にともない、逓信省が設置され、郵便や電信など通信行政の一元化がはかられた。翌十九年二月公布の「地方逓信官署官制」では、郵便局は逓信省直営の一・二等局と郵便取扱役在勤の三等郵便局に区分された。この三等局(現在の特定郵便局にあたる)が全郵便局の大半を占めることとなり、わが国の郵便事業の発展を支えたのである。また、電信局が同一区内にある場合は郵便電信局として合併できるとされ、その後、郵便局も電報を取り扱うようになっていった。なお、この官制では駅逓出張局を廃し、全国一五か所に逓信管理局が設置され、県内の郵便局は金沢逓信管理局の管轄となるが、この管理体制はこれ以後もしばしば改正された。
 明治後期になると、郵便事業はさらに発展し、事業内容も多様化していった。二十五年六月には「小包郵便法」が制定され、翌年から全国で実施された。福井県では、二十六年二月から敦賀局で開始され、順次各局で取り扱うようになった。県内の総取扱数は、二十六年に約一万八〇〇〇個であったのが、翌二十七年には約三万六〇〇〇個に倍増し、三十三年には約一〇倍の約一八万六〇〇〇個へと急激な伸びをみせ、小包郵便が郵便事業の重要な部門の一つとなったといえる(図39)。なお、四十年十月からは敦賀局で外国小包郵便の取扱いが開始された。金液・白金液などの輸入に利用され、敦賀港においては外国小包郵便が貿易輸出入額の首位を占めることになった(『敦賀郡誌』)。
図39 小包郵便物数(明治26〜44年)

図39 小包郵便物数(明治26〜44年)

 また、日清戦争が始まると、軍隊の士気を高めるため軍事郵便制度が実施され、戦地に赴いた軍人の利用する郵便料が免除された。さらに、日露戦争時には同制度が拡充され、福井県では三十七年の一年間に県内各局で約七三万通もの軍事郵便が取り扱われた(『県統計書』)。
 なお、この間、三十二年四月には郵便料金が改定され、この料金体系が昭和戦前期まで維持された(たとえば葉書一銭五厘)。また、翌三十三年三月には郵便為替法・電信法とともに、「郵便条例」「小包郵便法」に代わる「郵便法」が公布され、通信に関する法体系が整備された。これにより信書の秘密が保障され、また書留の賠償責任も明記された。
 郵便局にはこれら郵便業務以外に、八年に制度化された貯金や為替といった金融業務もあった。両者とも当初は取扱局が限定されていたが、しだいに広げられ、三十四年三月からは、郵便業務を行うすべての局で取り扱われるようになった。貯金業務についてみると、当初は金利や手続の問題から振るわなかったが、二十三年の「郵便貯金条例」制定後、一定の増加をみた。しかし、郵便貯金の激増をもたらしたのは、日露戦費の調達や戦後経営のため政府資金の拡充が要請され、三十八年に「郵便貯金法」が制定されてからである。福井県でも図40からも明らかなように、県による熱心なキャンペーンもあり日露戦争時から郵便貯金は急増し、大正中期には県下各普通銀行の預金総計に匹敵する額となった。さらに注目されることは、県民の貯蓄性向が高かったことである。明治後期から大正期にかけて全国平均と比較しても、福井県の一人あたりの郵便貯金額は大きく、府県別ではつねに上位にランクされていた。
 図40 人あたりの郵便貯金年度末現在高(明治33〜大正15年)

図40 人あたりの郵便貯金年度末現在高(明治33〜大正15年)



目次へ  前ページへ  次ページへ