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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    五 郵便と電信・電話事業
      郵便会所の開設
 明治政府は、これまでの飛脚や伝馬の制度を廃して、近代的な郵便制度の導入をはかった。明治四年(一八七一)三月、東京・京都・大坂を結ぶ郵便を開始し、郵便切手も発行した。さらに、政府は同年八月には、函館、新潟、神戸、長崎の開港場に郵便役所を開設し、それぞれと東京をつなぐ郵便路線の開設を計画した(駅逓寮『大蔵省沿革志』)。同年十二月末には大坂から長崎までは開通したが、東京から中仙道をとおり新潟港へ通じ、さらに北陸道を経て京都・大阪へつなぐ計画が実現するのは五年七月まで待たねばならなかった。
 この間、ほぼ全国で郵便制度が実施される五年七月を待たずに、福井県(四年七月の廃藩置県で福井藩は福井県となった)は、四年十月ころには独自に新しい郵便の導入をはかった。まず、同十月の日付で、木版刷りの「越前郵便之定」を管内に配布した(上田重兵衛家文書)。それによれば、福井・武生・今庄の三か所に郵便会所を設置し、福井・尾張熱田間の郵便路線を開設し既設の東海道線と結び、毎月三と八のつく日に郵便業務を行うことになっていた。差し出す書状には「越前郵便 版元福井」の「切手札」を貼ることとしており、この郵便事業の主体は福井県であったと思われる。また、「同定」には「望ノ向ハ勝手次第可差出事」とあり、この制度は一般の人びとも自由に利用できるものであった。なお、同年十一月、福井県は、江戸時代からの東京との月二回の定飛脚の制度の廃止を布達している(坪川家文書)。
写真132 「越前郵便之定」

写真132 「越前郵便之定」

 さらに、福井県は同年十一月、大蔵省に郵便試行を願い出ている。この時申請した「仮規則」は「越前郵便之定」とほぼ同じ内容をもつものであった。しかし、切手は大蔵省から「拝借」し、その代金を二か月ごとに納めることとなっており(『駅逓明鑑』)、この申請は福井県の郵便事業を政府管轄に移すためのものと考えられる。この「仮規則」による郵便業務は、翌十二月から実施されることになった。このとき、福井・尾張熱田間の郵便路線とともに、福井・新潟間や福井から近江経由の京都大阪への路線の開設も布達された(大蔵省第一四五)。
 この郵便業務は、四年十二月、越前五郡を管轄とする福井県を改称した足羽県に引き継がれた。同県は、五年十月に、四年十二月から五年六月までの実績を政府に報告している(表163)。これによれば、七か月間で六四五一貫余の切手が売られている。「越前郵便之定」には五匁までの一通分の郵便料が、福井・東京間は銭一貫六百文、福井・西京(京都)間は一貫目とあることから、当時の福井での郵便への需要がどの程度であったかが推定できる。また、管外から福井への郵便は四年十二月から翌五年三月までの四か月で三二五通、四月から六月の三か月で八四三通であった。

表163 郵便切手の出納取調

表163 郵便切手の出納取調
 なお、この郵便開始をW・E・グリフィス(もと藩学教師)は、五年一月三日の日記につぎのように記している(『グリフィスと福井』)。江戸からの手紙を受け取った。十月の日付にはあきれてものが言えなかった。桑原から受けた布告によると、藩の二カ月に一度の郵便制度を今度は止めて、市の郵便所を設置し、郵便は福井からと東京から、毎月三のつく日と八のつく日の六回出る。郵便料は五匁につき十五天保銭で、東京までの所要時間は四日だという。



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