目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    四 海運業の消長
      小廻り船の活躍
 ところで、汽船会社や北前船が、明治期の海運業の主力と思われがちだが、船舶数からいえば、それらが占める割合はほんのわずかにすぎない。船舶の大半は「小廻り船」といわれる廻船で、それは最大でも二〇〇石積みまでで、ほとんどが五〇石積み以下の小型の和船であった。ちなみに、明治十一年(一八七八)の小浜港の船舶出入港数をみると、一〇〇石以上が三四一艘に対し、一〇〇石未満が一〇五七艘と、全体の七五パーセントを占めている(『二府四県采覧報文』)。この小廻り船は、おもに近距離間の物資輸送を行い、なかには漁船を兼用するものもあったようである。
 ここで、小浜港に入港した小廻り船を例に、その船の大きさ・航路・積荷などをみてみよう。同港の船荷問屋であった田中雅次郎家には、同家との取引のために入港した船の船名やその船主所在地などを記した入船帳が残されている。その記録は、明治十年から大正十三年までの四八年間にも及び、記載船数は一六三三艘を数える。また、十年から三十二年に限っては入港船舶の大きさがある程度わかる。それによれば、一〇〇石未満は全体の四七パーセントを占めるが、さらに石数不明のなかにも一〇〇石未満も相当数が含まれると思われる。また、明治末年の船主所在地別の入港数をみると、越前(三三七)、丹後(二八七)、隠岐(二五八)、加賀(二一四)、近江(九六)、その他(二二七)となる。このうち、越前と丹後の船は小型の船が多い。
 越前の場合、船主所在地は丹生郡厨浦、小樟浦、宿浦、小丹生浦が大半を占める。これらの船は、入船帳には「生国(船主所在地)ヨリ来」「三国坂井港ヨリ来」「敦賀港ヨリ来」「丹後ヨリ来」と記載されているものが多く、坂井港〜丹生郡各浦〜敦賀港〜丹後地方を航路としていることがわかる。また、宿浦の古部利兵衛(万利丸)のように、年間の入港回数が一〇回以上のものもあり、さらに、積荷として「越前米九拾俵」「越前瓶いろいろ」「五六石(笏谷石)」「米三拾俵」「小豆廿俵」などの記載があることから、地元の産物を中心に運んでいたものと思われる。
 なお、田中家には明治三十九年から大正六年にかけて、運賃積みで発送した商品とそれを輸送した船名を記した「送荷物届控」も残されている。ここに記載された船は、そのほとんどが入船帳には記載されていない。入船帳が従来の買積みを目的として入港した船だけを記載したものであるならば、前述の小廻り船は、買積みを行っていたものと推測されよう。
 つぎに、三国港に入港した小廻り船の例をみてみよう。同港の船荷問屋であった平野吉左衛門家には、明治二十二年から二十九年にかけて、同家が発送した商品(おもに米と菜種)を、敦賀港まで輸送した船を記した「貨物逓送録」が残されている。これには、敦賀・三国汽船会社をはじめとして加能汽船会社や丹州汽船会社の汽船のほか、積載量から小廻り船と思われる和船や積荷が記されている。ちなみに、この小廻り船の船主所在地は、いずれも三国港周辺で、なかでも丹生郡鮎川が多い。また、この「逓送録」には、輸送された荷物の量に応じた運賃が記載されており、ここに記載された小廻り船は、ほとんどが運賃積みであったといえよう。なお、米と菜種に限って小廻り船と汽船の輸送量の割合をみると、米は二十四年から汽船の割合が高くなるものの、菜種はほとんど小廻り船によって運ばれていることがわかる(表162)。

表162 米・莱種の輸送量(明治22〜27年)

表162 米・莱種の輸送量(明治22〜27年)
 小廻り船による物資輸送は、明治後期においても盛んであったと推測される。敦賀港では、四十年から四十四年にかけて、年間に約九〇〇〇艘あまりの小廻り船が入港し、また、小浜港でも三十六年の二六八〇艘を最高に年間五〇〇艘以上が入港している。さらに、同港では三十六年以降、五〇石積み以上の和船の入港も急増している。この入港数と総石数を換算すると、一艘あたり一〇〇〜一七〇石となることから、その大半は小廻り船であったといえよう(『県統計書』)。
 明治期の日本海沿岸航路における海運業は、大型和船や汽船の進出によって飛躍的発展をとげたが、それらは主要港間の輸送であり、主要港に荷揚された商品を地域の諸港へ運んだのは、小型和船による海運網であった。鉄道の開通にともない、大型和船や汽船による海運業はしだいに衰退または停滞傾向を示すが、商品の種類や地域によっては、小型和船による海運が、さらにのちまで重要な役割を果たすといえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ