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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    四 海運業の消長
      北陸線開通の影響
 明治二十二年(一八八九)七月、北陸線は長浜・米原間が開通し、東海道線と接続された。これによって、日本海各地の物資は敦賀港に陸揚げされた後、鉄道によって関西や中京方面へ運ばれるようになり、同港における物資の移入量が大幅に増加した。敦賀港駅の鉄道貨物発送量をみると、二十年に二八六〇万斤余であったのが、二十二年にはいっきょに六〇八九万斤余と急増している。さらに、二十二年の同港移入額をみても、二十年の約五倍となっている(『県統計書』)。なかでも、米の移入がもっとも多く、「敦賀入津の米穀夥多し」との小見出しで、陸揚げされた米が停車場構内の石蔵に納めきれず、波止場に積み上げられたままとなっているので、「別仕立汽車拝借」の請願に米商人が神戸鉄道局に出発したとの記事もみえる(『福井新報』明22・6・18)。
 この鉄道の開通に加えて、十年代後半の不況を脱して十年代末には企業勃興期といわれる好景気を迎えたことで、北陸地方の海運業も活況を呈することになるなか、従来の和船海運業者の経営にも変化がみえはじめた。
写真130 西洋型帆船

写真130 西洋型帆船



写真131 汽船「南越丸」

写真131 汽船「南越丸」

  福井県では右近家が、二十一年に最初の西洋形帆船岩田丸を、二十六・七年には汽船南越丸を導入しているように、北陸の有力北前船主のなかには、持船を和船から西洋形帆船や汽船にかえていくものがふえてきた(表160)。そして、従来の買積みとともに、汽船による運賃積み輸送も行うようになっていった。当時、政府の保護をうけた日本郵船会社や大阪商船会社が「社船」と呼ばれたの対し、このような旧来からの船主は「社外船」と呼ばれ、その活動もしだいに活発化し、社船の不定期航路部門に大きな打撃をあたえるようになっていった。また、二十六年一月には、一部の社外船グループが「日本海運同盟会」を結成するなど、社船への対抗を表面化させていった。

表160 北陸親議会の会員・船舶数

表160 北陸親議会の会員・船舶数
 しかし、一部の有力な北前船主は運賃積みを主とする近代的な海運業へと転換していったが、大半の船主は買積みによる北前船経営から後退せざるをえなくなっていった。これは、北前船主にとってもっとも利潤の大きかった北海道産の魚肥の流通経路が大きく変化したためであった。すなわち、北前船主を介せずに、産地と消費地の問屋が直取引を行うようになり、また、輸送も運賃積みによって大型汽船で運ばれるようになったのである。このことを二十八年刊行の村尾元長『鰊肥料概要』は、「現今肥料売買の景況ハ、十年前と稍々其趣を異にせり、第一銀行開業と共に荷為替の便を得、第二府県直取引の増加、第三専ら汽船に由て輸出し、帆前船を擯斥するの傾向あり」と述べるとともに、さらに「将来交通運輸の便を得るに従って需要者と供給者の中間に於る幾多の手数と費用とを滅却するは自然の結果にして、決して怪むに足らざるなり」と、流通合理化の必然性を主張している。
 二十九年七月に北陸線の敦賀・福井間が開通し、三十二年三月には富山まで開通をみた。この北陸線の延長は、福井県の海運業に大きな影響を及ぼすこととなった。
 越前・加賀地方の物資の集散地であった三国港では、福井まで鉄道が開通する以前は「金石、敦賀の諸港に定期航路を開き、千石内外の和船常に北海道、其他各地に往来するもの百余艘に達」していた。しかし、その後、米は鉄道によって運ばれるようになり、翌年に動橋まで延長するころには、「海運に依るものは殆ど其の跡を絶つに至れり」という状況になったという(鉄道院『本邦鉄道の社会及経済に及ほせる影響』)。また、三十三年十二月に北陸線高岡と伏木港が鉄道で結ばれると、富山以北の物資は伏木港に陸揚げされるようになり、敦賀港の移出入額は減退していった。ちなみに、敦賀・金石間を主要航路する加能汽船会社は、同間が「汽車開通と共に乗客貨物とも皆無の姿となり」(『北国新聞』明32・6・9)、三十三年三月には解散を余儀なくされていた。
 汽船輸送の発達に加えて、このような鉄道輸送の伸展によって、物資流通の合理化がよりすすめられることとなり、買積みという旧来の商取引による北前船経営は苦しくなっていった。そのことは、表160の北陸親議会の会員数や船舶数の急減をみても明らかであり、北陸親議会自体も三十六年には解散している。加えて、ニシン漁獲高の減少や日露戦後に安価で肥料効果の劣らない「満州」産大豆粕が大量に輸入されると、ニシン肥料の需要も減少し、北前船経営はいっそうの打撃をうけることになった。

表161 回漕業出身者の会社役員一覧

表161 回漕業出身者の会社役員一覧
 このような状況のなか、有力船主は銀行業・倉庫業・保険業・水産業など事業の多角化を進めていった。福井県を例にとると、すでに三国の森田三郎右衛門や敦賀の大和田荘七が銀行業に進出しているが、二十九年には河野村の右近権左衛門が石川県の船主らと日本海上保険会社を創立し、また、三十八年には大和田荘七が北海道留萌で炭坑経営を開始、三十九年には三国の村井捨蔵らが南越遠洋漁業会社を設立するなど、地方企業家の道を歩んでいった(表161)。



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