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 第三章 明治期の産業・経済
   第四節 鉄道敷設と公共事業
    四 海運業の消長
      海運会社の設立
 明治前期の北陸の海運業は、和船が中心であったが、十年前後からしだいに、西洋形帆船や小型の汽船を導入した海運会社が設立されていった。これら海運会社は、北前船にみられるような買積みではなく、物資の輸送や乗客からの運賃収入を目的とする運賃積みで経営された。
 福井県では、明治八年(一八七五)にはじめて汽船を導入した会社が設立された。六年一月に足羽県を合併して成立した敦賀県では、県庁が敦賀に、支庁が福井にあったため、木ノ芽峠を境とする嶺北・嶺南の交通が従来にも増して重要視された。同年九月、村田氏寿参事は、三国や敦賀の有力商人に対し、三国・敦賀間を航路とする汽船会社の設立を促し、翌七年、三国では元丸岡藩士前田閑らによる三国汽船会社が、敦賀では大和田荘兵衛らによる敦賀汽船会社が設立された(『三国町史料』内田家記録、資10 二―一六八)。
 翌八年には両社は合併し、敦賀・三国汽船会社となり、東京より購入した汽船敦賀丸をもって、七月より三国・敦賀間の営業を開始した。同社は、県内航路に限って損失が生じた場合には県からの補填をうけることとなっており、半官半民的な会社であった。当初は一般の利用も少なく、同社は負債がふえる一方であった。しかし、同十年の西南戦争で陸軍御用船となり、その使用料一二〇〇円が政府より支払われ、また、十一年には利用の増加によって二〇〇〇円の利益も生じるようになった。十二年には三国丸を新造し、敦賀・三国丸の二艘が就航することとなり、利用はさらに増加していった。十二年十一月から十三年三月までの会社勘定では、運賃収入が一万二五〇円余となり、うち一八〇〇円を株主に配当しており、また、十三年十月には汽船旦勢丸を購入するなど、同社の経営は順調であった。
 しかし、十三年六月から北陸線の敦賀・長浜間の敷設工事が始まると、鉄道開通による物資輸送の増大を見込んで、県内外の海運会社が敦賀港を中心とする近海航路を開設していった。十四年には敦賀の室五郎右衛門・中村宗七が設立した海陸運送会社敦賀組が、汽船臼杵丸を購入した河野浦の中村三之丞を加え、三国・敦賀間航路を開設した。その後、この敦賀組は同年七月に石川県金沢の水登勇太郎らが設立した北輸会社と合併し、金石港(石川県)・三国・敦賀間を就航することとなった。さらに、十五年六月には新潟汽船会社が新潟・敦賀間の就航を開始した。これらはいずれも、敦賀・三国汽船会社と航路を同じくするため、会社間の競争がしだいに激しくなり、十五年十月には福井・石川両県の勧告で、北輸会社は敦賀・三国汽船会社に合併することとなった。また、このころ始まった松方デフレによる不景気のため取扱貨物や乗客数が減少するなか、会社間の貨物獲得競争から運賃値下げにふみきらざるをえなくなり、汽船会社の経営は苦しくなっていた。しかし、松方デフレが終息するころには、敦賀港に就航する中小の海運会社の設立があいついだ。十九年五月には金石・敦賀間を航路とする加能汽船会社(本社、金沢)が設立され、二十一年には丹州汽船会社(本社、宮津)が宮津・敦賀間の営業を開始している。



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